打ち首こくまろ

限界オタクの最終処分場

読書感想文 『競馬の終わり』

 競馬やってるって言うと「え、この人キモオタっぽい見た目の上にギャンブル依存症とかマジ引くんですけど」みたいな顔された上に実際に距離20mぐらい置かれその後一切目も合わせてくれないんですけど、競馬の一番の醍醐味ってギャンブル性じゃなくて、生き物が主役だからこそ存在する「何が起こるかわからない」感だと思うんですよね。10年以上前にJRAのCMで明石家さんまが「サプライズ!」とか連呼してたと思うんですけど、アレです。時として想像を絶する事態が起こるのが競馬なんです。

 2014年、16頭中16番人気単勝272.1倍でフェブラリーステークスを制したコパノリッキーなんか、その後4年にわたってダート王者として君臨し続け、最終的にGIを11勝しましたからね。2012年にも、阪神大賞典で1.1倍の圧倒的支持を受けたオルフェーヴルが、3コーナー手前で歴史的大逸走、しかし最後方から再び盛り返して2着に入るという、メチャクチャなレースを演じました。レース前、誰がこんな筋書きを思いつけるでしょうか。

 もちろん、1番人気が順当に勝ったり、そうでなくても4番人気あたりが無難に勝ったりすることの方が圧倒的に多いわけです。ですが、そんな予想や調和を裏切って、歴史に爪痕を残すような走りが見られるのは、もしかしたら次かもしれない。馬は喋らない。馬は人に迎合しない。だから面白い。人間の浅薄な想像を、蹄で踏みつけてぶっ壊すような、競馬にはそんな超常的な何かを感じずにはいられないのです。

 でも、そんな競馬が22世紀には終わるらしいですよ。いや、終わるんだって。本に書いてあったもん。Wikipediaよりも本に書かれた情報を信用しろって小学校の先生も言ってた。

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 というわけで『競馬の終わり』です。

 時は2110年代。温暖化による自然災害が全世界を襲い、アメリカは一夏に284個のハリケーンに襲われ壊滅、相対的に強国となったロシアが南下を始め、戦争の末に植民地になってしまった日本が舞台。ちなみにヨーロッパも同様に自然災害に襲われている中、日本は比較的無事だったため、日本が世界一の競馬大国になっています。

 そんな中、競走馬のサイボーグ化が決定します。施行は3年後。つまり、現1歳のサラブレッド達が、生身の体でダービーを走る最後の世代となります。

 サラブレッドを生産する牧場を経営する笹田の元に、ロシアの高官・イリッチが訪れます。彼はその”最後の”ダービーに、たった一頭の所有馬で勝利しようというのです。そのために、笹田の生産した1歳馬を譲れ、と。「ポグロム」と名付けられたそのサラブレッドはダービーを目指しますが、その前に、狂気の配合により生み出された異質なサラブレッド、「エピメテウス」が立ちはだかります。果たして、ダービーを勝つのはどちらなのか… 以上が大まかなあらすじです。

 競馬はブラッドスポーツです。速い馬と速い馬を掛け合わせ、さらに速い馬を産み出そうという試みは、さながら生産者が神に成り代わって自然選択をしてるようなものなのですが、これがサイボーグに成り代わったらどうなるのか。どの馬も同じ筋組織で走ることになるなら、知恵を資金を絞り出して最高の配合を作り出すより、サイボーグになる器としてのサラブレッドを作ればいい。ブラッドスポーツとしての競馬は死ぬわけです。

 もう一つの死が「あり得るのインフレ」によるもの。どの馬が勝っても不思議のない状態になれば、どの馬が勝っても驚けない。以前の競馬でも、どの馬が勝ってもという状態はあったが、可能性の勾配はもっと極端だった。小さいはずの可能性が現実になったら、驚く。可能性が平等に無いからこそ価値がある。サイボーグ化によって「あり得る」がインフレする。ドラマとしての競馬は死ぬ、というのが2つ目。これは本文中に書かれていたことなのですが、なかなか競馬の本質を表しているなと思いました。

 「血統」と「可能性」が競馬の2大要素というのなら、零細牧場の笹田の手により生み出された「ポグロム」は「可能性」、禁断の配合の結実として作られた「エピメテウス」が「血統」に結びつきます。どちらもサイボーグ化によって殺される要素、その権化がダービーの場で雌雄を決するというストーリーには、なかなか熱いモノがあるのではないでしょうか。Amazonには物語の締め方に批判的なレビューが載っていましたが、僕としては、この小説のテーマを見事に描ききった、素晴らしいラストシーンだと思います。結末はご自身の目で確かめてみてください。

 しかし、「脱属人化」とか「働き方改革」とかのスローガンのもと、仕事の内容や成果が均一化してきたり、Twitterとかを通して他の人の意見を見ることで意識を共有したり、身体にメスを入れていないだけで僕たちもサイボーグに着々と近づいているのではないでしょうか。この分だと、人間社会も総サイボーグ化となるのは時間の問題なのかもしれません。あぁ、手足と顔面が羽生結弦のサイボーグになってモテたい。