打ち首こくまろ

限界オタクの最終処分場

映画「セッション」がマジでヤバかった

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いやぁ、バーフバリ最高ですね。人グワーッ建物グワーッ武器バッサーッの連続に圧倒されて偏差値が3になり字が読めなくなりました。

「もっといい映画を観たい」という本能だけの存在になった僕はヨダレを垂らしながら近所のTSUTAYAに足を運んだのですが、レンタルしたのは「セッション」。以前から興味あったのですが、この機会に借りてみることにしました。

いやぁ、セッション最高ですね。ドラムドシャーン車ガチャーンハゲブワーッの連続に圧倒されて偏差値がアンダーフローして236になりました。バーフバリが鉄球バチーンってぶつけられるような「面」で圧倒される映画だとすれば、セッションはアイスピックでザクザクされるような、切れ味鋭い「点」の映画でした。

米国随一の音楽学校に入学したものの、クラスから孤立し孤独にドラムの練習に打ち込むニーマン。彼を見出したのは、音楽学校の中でも名高い指導者であるフレッチャー(ハゲ)。ニーマンはフレッチャー率いるスタジオバンドに誘われることになるのだが、そこでニーマンは、フレッチャーの精神的・肉体的暴力を伴う苛烈な指導を目の当たりにする…

この映画は、若きドラマーであるニーマンと超スパルタ教師・フレッチャーの闘いを描いた作品となります。「でもどーせ二人は和解して、最後は仲良く最高の演奏をしてハッピーエンドなんでしょ?」と思うあなた。そんな凡百な作品がアカデミー賞作品賞にノミネートされるはずがありません。物語は二転三転急転直下し、最後には予想のつかない展開に。この二人の闘いの結末に度肝を抜かれることは間違いないです。

ネット上の感想ではあまり触れられていませんが、この映画の映像もかなりヤバイですよね。極端な色調に統一された画面、顔やドラムのアップを多用する演出、そして痛さ... どの要素も緊張感を演出するのに一役買っていると思います。お家で鑑賞するときには、ぜひ部屋を暗くしてください。

ところで、セッションを語るに欠かせないのは、その闘いの結末が描かれるラストの9分間。言うまでもなくこの映画のクライマックスなのですが、登場人物によるセリフがほとんどありません。動きと表情だけでほぼすべてを物語るのですが、それ故に、見る人によってある程度解釈の振れ幅があるような気がします(監督のインタビューを読むに、おそらく意図的なもの)。というわけで、以下、自分なりのこの映画のラストシーンの解釈を書いていきたいと思います。当然ながら以下ネタバレ注意。未見の方はいますぐレンタルショップに駆け込んで鑑賞してからお読みください。


フレッチャーを「ニーマンを覚醒させようと外道を演じた優れた指導者」と評価する解釈をちらほらと見かけたのですが、僕はそうは思いません。正真正銘、根っからのド畜生だと思います。

クライマックスの入り口、フレッチャーがニーマンに対して自身の教育論を話した場面がありました。フレッチャーが言ったことは、「自分の仕事は偉大なミュージシャンを育てること」「『よくやった』と褒めることは才能を殺すこと」。ニーマンに「あなたはやり過ぎたんだ」と言われても、「次のチャーリー・パーカー(20世紀前半の偉大なドラマー)は何があっても絶対に挫折しない」と。つまり、度を越した暴力と罵詈雑言に耐え抜いて技術を磨かせなければ、歴史に名を残すような偉大なミュージシャンは生まれない、とフレッチャーは確信しているのです。

一方で、フレッチャーの教え子の中には、過酷な指導の中で鬱病に悩まされ、数年後に自殺した生徒もいました。そのことについてフレッチャーは「謝罪する気はない」と言っていますし、挙げ句の果て「交通事故によって死んだ」と偽って、バンドメンバーの前で生前の彼の演奏を涙ながらに話す等して自身の指導に利用していました。このことから、フレッチャーは教育者として最低なのは明らかです。彼は教え子を見ていません。見ているのはジャズそのものであり、1人の偉大なミュージシャンを見つけるためには、他の1000人の凡人を殺す事が許されると考えているような、言わばジャズという宗教の狂信者と言っていいような存在です。

そんな彼にとって、シェイファー音楽学校は最高の活動場所だったに違いありません。全米最高の音楽学校、そこに入学するのは若い才能の塊。最高のミュージシャンを見つけるには格好の舞台です。フレッチャーはそこで、彼の期待に達しない才能を踏みつぶしながら、歴史に名を残すような才能を数十年間待っていたのでしょう。

彼の願いは叶わず、ニーマンの密告によりフレッチャーは学校を解雇されます。いや、実際には匿名での密告だったのですが、おそらくニーマンしか知り得ないような情報が密告の中で明らかになり、彼の密告だとフレッチャーは悟ったのだと思います。「ジャズに偉大なミュージシャンを捧げる」という崇高な理念を、志半ばで頓挫させられてしまったフレッチャーのその内心は、ニーマンに対する憎悪に沸き立っていたことでしょう。

つまり、JVC音楽祭においてニーマンに嘘の演目を教え、舞台上で悲惨な演奏をさせたのは、ニーマンに試練を与えたのではなく、ただ単にフレッチャーの復讐と考えるのが妥当だと思います。

余談ですけど、このシーンは本当に鳥肌が立ちました。だって、本番直前「スカウトマンはヘマをした奴を忘れない」と言ってバンドメンバーにプレッシャーをかけておきながら、自分のバンド、そして自分自身を犠牲にしてでもニーマンに対して復讐しようとするその深い憎悪。さらに、ニーマンは学校を退学してからドラムをしていない、つまりミュージシャンとしての道から降りたはずなのに、それを再びステージに上げてから、もう二度とミュージシャンとして再起できないように叩き潰そうという執念。「フレッチャーはもしかしたら根はいい人なのかもしれない…」という幻想を完膚なきまでに打ち砕く、正真正銘のモンスターだと明かされたシーンでした。

曲が終わって呆然とするニーマンは、絶望を胸に秘めながらステージを後にします。父に抱きしめられ「さぁ 帰ろう」と言われたのですが、何を思ったのかニーマンは再びステージ上に戻ります。さて、ニーマンの胸の中には、この時何があったのでしょうか。フレッチャーの、「次のチャーリー・パーカーは何があっても絶対に挫折しない」という言葉でしょうか。

いや、そうであるなら、ステージに戻った時に普通に次の曲の演奏に加わるはずです。彼がやったのはドラムソロ。しかも圧巻の。フレッチャーにも、横のウッドベースにも「何をやっている!」と止められるのですが、ニーマンは「合図する!」と一言。ドラムは次第に熱を帯びていき、遂にはそのドラムに合わせて、バンドは次の曲「キャラバン」を始める、始めざるをえなくなってしまいます。フレッチャーの指揮を離れて。

つまり、これはニーマンの、フレッチャーに対する復讐なのです。フレッチャーが自分に対してやったように、今度は自分がフレッチャーの指揮権を剥奪することで、彼を音楽的に亡き者にしたい。そんな感情がなければ、このような行動には出ないはずです。

信頼関係で結ばれたものではない、殺意に似た感情で繋がれた歪んだ師弟関係。その狂気の果てに、バンドは最高のグルーヴを奏で始めます。最初は怒り困惑していたフレッチャーも、いつしかニーマンのドラムに合わせて指揮を取り始めます。そして、次第に「こいつが次のチャーリー・パーカーだ」と悟っていくのです。そして浮かべる歓喜の表情。それを見てニーマンもニヤリと笑う。バンドの演奏が締められ、スタッフロール。

いや、本当にすごいです。フレッチャーの存在を否定したいがために取ったニーマンの行動が、結局フレッチャーの夢を叶えてしまう皮肉な結末となってしまうのですが。。。 結局、フレッチャーもニーマンもどっちも狂人。そんな狂気の果てに生まれるカタルシスを見事に描いた、やっぱり評判に違わない傑作だと思いました。それにしても、お互いの刺し合いの果てに最高のセッションが奏でられるというのは、これは実質セックスなのでは?(突然の腐女子脳)