打ち首こくまろ

限界オタクの最終処分場

お気持ち表明徹底指南 〜「俺は冬優子に生きて欲しい。」に寄せて〜

 magazineworld.jp

 アイマスが特集されたBRUTUSを買った。本当に素晴らしい特集だったと思う。アンバサダーの書き下ろしイラストに実在感の極めて高いインタビュー。アイマスのプロデューサー(所謂ファン)や本職のアイドルプロデューサー、そして専門家のそれぞれの目線の切り口から語られるアイマスの魅力。15周年を迎えたアイマスの魅力を余すことなく表現した、素晴らしい特集だった。

 しかし、あまりにも残念なことが二つある。

 一つは、その特集の読者からのリアクションで一番バズったのが、内容に対して極めてネガティブな上記のお気持ち表明であること(記事執筆時点で約2000RT)。いくらネガティブな反応がバズりやすいからといって、この状況はあまりにも悲しい。

 もう一つは、上記のお気持ち表明の文章が極めて質が悪いこと。事実と憶測の混同、主語の拡大、不誠実な語り口、論理的整合性の欠如、結論の不在... 人の気持ちを動かすべきお気持ち表明において、やってはいけない文章表現をほぼコンプリートしている。バズらせるならもっと良い文章あるやろ...

 僕は失敗から学ぶ事が大好きな人間なので、上記のお気持ち表明の何がダメなのか、どうすればいいのかを、お気持ち表明を散々繰り返した僕からの目線で解き明かしていきたいと思う。オタクたるものお気持ちを表明したくなる時は必ず来るし、その際には出来るだけ多くの人の心を突き動かす文章を書きたいものだ。もしその時が来た時、この記事がそのためのいい教材になれば幸いである。

 なお、僕は「シャイニーカラーズ」をほとんどプレイしていないし、黛冬優子というキャラクターの全貌を把握していない。よって、この後の文章では、黛冬優子のパーソナリティについては一切扱わない。

お気持ち表明の2パターン

 さて、ここまでザックリと「お気持ち表明」と書いてきたが、扱う範囲を無駄に範囲を広くしないために、ここではお気持ち表明を2つのパターンに分類したいと思う。

 まずは「純粋お気持ち表明」。これは起こった事象と、それによって損なわれた自分の感情について記すのみの文章のことを指す。言い換えればエッセイとほぼ変わらない。このタイプのお気持ち表明は論理的整合性などの文章技術は何ら求められない。好きなだけ自分の感情を主観的に書いていいし、好きなだけ文学的表現に徹すればいい。この記事ではこの「純粋お気持ち表明」については扱わない。

 もう一つは「問題提起型お気持ち表明」。これは自らのお気持ちを表明すると共に、読者に対しても「これは他人事ではない」「お前も行動しなければ自分と同じ目に遭う」と行動を呼びかけるものである。これは前者に比べて、文章に求められる整合性のレベルが跳ね上がる。読者に行動を呼びかけるというのは、それだけの行動を起こすコストを読者が支払う正当性を証明しなければならないからだ。この記事ではこの「提案型お気持ち表明」についてのみ扱う。

 さて、先に掲載した「俺は冬優子に生きて欲しい。」なのだが、これは途中で「冬優子担当だけに関係することではない」「目の前にある問題に対して見てみぬふりをする「事なかれ主義」は、近い将来あなたが致命傷を追う原因になるかもしれません。」と書いてあることから、明らかに後者である。こう強く呼びかけるならば同じくらいその危機感の正当性を強く主張しなければならないのだが、この記事はそれに失敗してしまっている。

 具体的にどこがダメなのか、先にまとめて掲載し、その後一つずつに対して言及していく。

  • 誠実でない
  • 読者の想定質問に答えていない
  • 根拠なく主語を拡大している
  • 無闇矢鱈に敵を増やしている
  • 結論が不明瞭
  • 途中で別のテーマに飛んでいる
  • 論理的に繋がらない文章がある
  • BRUTUS、お前もか」が寒い
  • 全体的に推敲されていない

お気持ち表明重要ポイント指南

お前が一番誠実であれ

 お気持ちを表明するということは、自分(あるいは近しい位置にいるもの)は被害者であると表明する事だ。そのためには、せめて文章内では自分のことを誠実な人間であるように見せる必要がある。誠実でない人間に感情移入できる人は少ない。

 さて、今回取り上げた記事の冒頭には、お気持ち表明人がお気持ち表明をするに至った原因である、BRUTUSに掲載された黛冬優子の推薦文がある。それは以下のような形で引用されていた*1

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 これだけだと本当に酷い文章に見えるが... 槍玉に挙げられた推薦文の全文は以下の通りだ。

ステレオタイプな可愛いアイドルを演じてはいるが、実は腹黒なオタサーの姫という設定。しかし(本人は否定するが)努力家で人情に厚く、面倒見も良い。計算高くアレコレと策は練るが、本来の人の良さからいまひとつヒールになり切れないところ、根性、潔さ、泥くさいところも含め、人間味が魅力。

 印象が大きく違う事が分かるだろう。この推薦文は「下げてから上げる」系の文章となっており、その表現方法に賛否あることは否定しないが、黛冬優子というキャラクターの複雑性、多層的な魅力を短い文章で表現しようとした文章になっている。明らかに、この文章の核心は後半にある。

 ところが、お気持ち表明人は、文章量的に略する意味など無いにも関わらず、推薦文の「下げる」部分のみを切り取って糾弾していた。さらにその直後の文章では「まともにプレイしても腹黒と思っている人は、日本語を理解できていない」と記述し、その後では推薦文の作成者を「黛冬優子というキャラクターの名誉を明確に毀損し、キャラクターの品位を貶めている」と極めて強い表現で批判している。

 当然ながら、推薦文の作成者は黛冬優子というキャラクターを中傷するつもりなどなく、ただ彼女の魅力を伝えたくて短い文章に文字を詰め込んだのだろう。それを、推薦文の作成者が本当に伝えたかった事を覆い隠して自分の気に入らない表現のみを論い、それを元にして一方的に糾弾するのは誠実とは程遠い行為だ。

 もし、推薦文の全文にアクセスできる読者が、お気持ち表明人が推薦文の核心部分を隠蔽したまま批判を展開しているのを読んだときはどう思うだろうか? この文章の書き手は信用できないし、読む価値が無いと判断されるに違いない。このような文意の切り取りは、文章全体の信頼性を毀損してしまう絶対にやってはいけない行為だ。何かを批判する際には、批判対象にこそ誠実でなければならない。そうでなければ読者はついてこない。

「〜かもしれない。でも〜」論法を使え

 さて、お気持ち表明人はなぜ推薦文を切り取ったりしたのだろうか? これは推測にはなるが、「黛冬優子を肯定する表現が含まれていることを書いたら、自分の書いた文章の正当性が失われるかもしれない」と考えた可能性がある。これはお気持ち表明をし慣れていない人が陥りがちなミスだ。自分がこれから糾弾する相手は、出来るだけ悪く写る必要があると考えてしまう。

 しかし今回の場合、筆者の怒りは「腹黒」「オタサーの姫」といった表現にある。これは推薦文の表現したかったものとはまた別の問題として論じることが出来るので、実は全文を記載しても何ら正当性を失うことは無いのだ。

 であるならば全文を掲載しようとすると、「推薦文全体としては良いこと書いてあるんだから目くじら立てなくても良くね?」と言い出す人が必ず出てくる。お気持ち表明人はこのような指摘を恐れた可能性があるが、自分はこのような指摘に備え「〜かもしれない。でも〜」論法を良く使っている。今適当に命名した論法なのだが、要は「一旦譲歩しておいて、それを考えても自分の主張が正しい事を念押しして表明する」という論法だ。

 今回のお気持ち表明では、「〜かもしれない。でも〜」論法を以下のように使うことが出来る。

 推薦文を書いた方は、短い文章で魅力を表現するためにキャッチーな言葉を使おうとしたのかもしれません。実際に、後半の文章では冬優子の一言では語り切れない魅力に触れていているので、そのコントラストを対比するために、前半であえてそうした言葉を使った可能性もあると思います。

 ただ、そうだとしても「腹黒」や「オタサーの姫」といった、原作では描写されていない表現を使うのは、いくら冬優子の魅力を表現しようとした文章だとしても行き過ぎかなと思います。それは、これらの言葉が冬優子を表現する事のできるものではなく、それどころかかえって誤ったイメージを読者に植え付けてしまう可能性があるからです。

 (以下、黛冬優子がオタサーの姫でも腹黒でも無いという説明、または自分だったらこういう推薦文を書くという改善案)

 お気持ち表明人は、推薦文の内容や作成者を糾弾するのみで、「いやでも、文章書いた人も悪口言おうとして書いた訳では無いでしょ?」という読者が非常に持ちそうな疑問に対し一切回答していないので、文章全体の説得力が落ちている。このように一度譲歩する姿勢を見せ、それでもダメな理由がある、という論法をすることによって、「確かに、魅力伝えようとしてもやって良いことと悪いことがあるよなぁ」と文章の中で読者を説得することが出来る。読者が持ちそうな疑問に対しては、文章内でその疑問を潰してあげる事によって、疑問が解消されてメッセージが伝わりやすくなる。

 副次的な効果として、一旦譲歩して考えることで自分の考えの論理的なアラも見つけることが出来るし、このような表現をすることでなんとなく「あらゆる立場に立って考える事のできる頭の良くて誠実な人」というイメージも与えることが出来る。簡単で効果が高いので、是非試してみて欲しい。

主語を拡大する際には根拠を示せ

 このお気持ち表明の中で一番マズいのが「冬優子担当だけに関係することではない」の節の文章。この節では、この推薦文に対して怒りの声を上げない人を「事なかれ主義」と断じ、「近い将来あなたが致命傷を追う原因になるかもしれません。」と脅迫している。ここまでお気持ちを読んできた読者に対して、いきなり刃を向け始めるのだ。触るものみな傷つけるギザギザハート状態である。

 お前も当事者だ声を上げろ、と主語を拡大するためには、このまま声を上げないことによって読者に降りかかるリスクを具体的に示さなければならない。そうでなければ、何の正当性も無いのに読者に対して雑に命令しただけになるので、ただただ反感を買うだけだ。

 ところがこのお気持ち表明では「あなたの好きなキャラが今後このような目に合わないと言い切れるのでしょうか?どこにそんな保証があるのでしょうか。」と曖昧に述べるのみだ。これでは読者は動かない。「声を上げなければ具体的にどうなるリスクがあるのか」「声を上げることによってどのようにリスクが回避されるのか」、この両方を説明しなければならない。

 また、お気持ち表明後半には「自分が命を削って真剣に演じているキャラクターの紹介文に事実無根のことを書かれ、キャラクターを貶めているような文章を読んだ冬優子の演者さんはどう思うのでしょうか?冬優子のキャラクターを作っているシナリオライターの人たちはどんな気持ちになるでしょうか?」という表現があるが、これも自分が主語であるはずのお気持ちを、声優やシナリオライターにも「自分と同じ気持ちであるはずだ」と拡大している。詭弁の一種なので避けるべき。自分の感情は自分だけのもので、他人に託せるものでは無い。

攻撃する人数は最小限にしろ

 文章を読んで感じるのは、推薦文を作成した人物への攻撃性。全文章にわたって様々な表現で罵倒しているのだが、本来このお気持ちで表現するべきなのは「相応しく無い表現が載った事」だけであり、推薦文作者のキャラクター理解の不足や文章力の不足を攻撃したところで何の意味もない。むしろ「良く善意で推薦文書いた人をここまで攻撃できるな」と読者に不快感を覚えさせるばかりである。

 加えて、前述のように他のアイマスファンを「事なかれ主義」と書いたり、「公式で書かれていないこと(二次創作などもそうですが)をさも正しい事実であるように書く」のように二次創作に対しても切り込んでみたり。さらにはネット流行語になった「あんたはここでふゆと死ぬのよ」という言葉を「面白くも何ともない」と吐き捨て、その言葉を面白く受け止めている人に対して「神経を疑う」とまで書いたり...

 とにかく全方位に対して無差別に斬りかかっているように見える。敵を作りすぎなのである。敵を作りすぎると論点がボヤけるし、何より文章を読んで反感を覚える人の数も多くなっていく。

 このお気持ち表明人が対決するべきなのはBRUTUS編集部とアイマス公式のみであり、その他の登場人物に対する言及は最小限に留めるべき。ピンポイントのターゲットに対して最大限の理論武装をするべきだ。

行動を促す際には現実的かつ具体的な行動を示せ

 これが最大の問題なのかもしれないが、このお気持ち表明は「誰が何をするべきなのか」が一切明確に書かれていない。

 読者に対しては「おかしいことに対しておかしいと声を上げ」るよう書かれているように読めなくも無いがとても曖昧だし、BRUTUS編集部に対しては「読者の悲しみの声に耳を傾けるべき」みたいなスピリチュアルな事を言っている。また、「BRUTUSの編集者が編集の段階で弾くことで事件は起こらなかった」と書いてあるが、これは編集者がシャニマスを深くプレイしている事を前提としており非現実的である。

 さらにアイマス公式に対しては、他社が自律的に編集して出版する著作物に対して「責任を持って監修すべきだった」等と無茶な要求をしている。その後に続くのが「なんで冬優子ばかりこんな目にあわなきゃいけないんだ」という節なので、まるで気に入らない人間をナイフで一通り刺した後に家帰って布団被って泣くみたいな不気味ささえ感じてしまう。

 このお気持ち表明は、読んでいる人に行動を促したいから書きたかった文章のはずだ。その肝心の行動がボヤけていたり、非現実的な行動だったりすると、果たして何のために書いた文章なのか、何のためにみんなを攻撃したのかも分からない。結局、触るものみんな傷つけて誰も幸せにならないのがこのお気持ち表明最大の問題だ。

 文章を書く際には結論は明確に書いたほうがいい。この場合には読者や出版社にとって欲しい行動。それを具体的に書いて、その行動を取った場合には何がどれだけ良くなるのか明確に書く。それを書けないのであれば、純粋お気持ち表明に留めておいたほうがいい。

一つの文章は一つのテーマ

 このお気持ち表明なのだが、実は二部構成になっている。第一部はBRUTUSに載った推薦文に端を発するお気持ち表明で、前述の通り結論が曖昧なまま、「無関係な外野によって冬優子が冬優子じゃなくなること」の節から第二部に移行する。第二部ではネットミームにより汚染された冬優子像について嘆き悲しむお気持ちが表明されるのだが...

 この第二部は第一部とは全く無関係な内容である。にも関わらず、シームレスに話題が転換(というか拡大)されてしまうので、読む方としては困惑する他ない。BRUTUSの文章について書いてるはずの記事が、途中から全く違う文章にすり替わってしまうのだから。

 結局、BRUTUSの記事に怒っているのか、最近の冬優子のイメージの毀損について嘆いているのか、はたまたシャニマス公式のアイドルへの配慮のなさに呆れているのか判別がつかない文章になっている。 一つの文章は一つのテーマとして仕上げなければ読者に伝わらない。BRUTUSの記事についてのテーマに絞って書くか、または文章全体の構造を変えて、最近のシャニマス公式のあれこれに対して苦言を呈すかのどちらかにするべきだ。

論理的整合性の無い文章は排除しろ

 第二部では「あんたはここでふゆと死ぬのよ」というミームが嫌いなこと、それがシャニマスの公式に逆輸入されて欲しく無いことを長々と書いているが、その中で以下のような表現がある。

「あんたはここでふゆと死ぬのよ」という面白くも何ともないこの台詞を、「じゃあ公式が言ったことにしてやるよ」とシャニマスシナリオライターが今後のコミュで冬優子に言わせたらどうなるでしょう。「あんたはここでふゆと死ぬのよ」が非公式の発言ではなく公式の発言になってしまいます。それと同じように、腹黒(心に何か悪だくみをもっている、陰険で意地が悪い)でオタサーの姫である、という非公式の妄想も同様に公式で逆輸入するのでしょうか?

 と、公式への逆輸入に対してかなり現実的な危機意識を持っていることが伺える。対して、直後には以下のような表現がある。

我々は、表には出てこないけどとても繊細で面白いシナリオを書いてくれるシャニマスシナリオライターの方々が大好きですし、心の底から尊敬しています。我々は、彼らが描くアイドルマスターシャイニーカラーズが好きなんです。

 シャニマスシナリオライターを尊敬しているのか不安視しているのかどっちなのか全く分からない。シナリオライターを「心の底から尊敬して」いるのであれば、ネットミームを雑に逆輸入する危機意識なんて持たないと思うのだけれど。シナリオライターに対する全く正反対のイメージが、何の補足も無しに立て続けに登場したので混乱してしまう。

 こんな文章が出てくるのは推敲していない証なので、どちらかを削除するべきだ。あるいは適当な補足を加えるべき。「シナリオライターの方々は大好きです。しかし、いずれ担当者が変わってスタンスが変わったとき、ミームを逆輸入して冬優子のイメージを毀損してしまわないか心配です」みたいな文章をどこかに書き加えるだけでも大分違う。

つまらないギャグは身を滅ぼす

 蛇足なのだが、全方面に対して怨嗟の声を撒き散らしてきたお気持ち表明の一番最後の節のタイトルがBRUTUS、お前もか」なのが脱力してしまう。誰もが考え付きそうなギャグだし、ただの寒いダジャレなのでやめたほうがいい*2

 ギャグを入れる際にはさり気なく、サラッと書いてしまうのがコツだ。節のタイトルにしてしまうと寒さが際立ってしまう。

客観的読者に査読してもらえ

 おそらくなのだが、このお気持ち表明を公開する前に誰かに読んでもらうことが出来たなら、こんな酷い文章のまま公開されることはなかっただろう。誰かが事前に読んでくれさえすれば、「書いてる事全然ピンと来ないんだけど」と指摘してもらえたはずだ。誰かに届けたい文章であれば、まずは身近な誰かに届くかどうかをテストしなければならない。そうしなければ、数時間かけて書いた文章がただの文字の羅列にしかならない。

 そんな人がいないのであれば、自分で徹底的に推敲するしかない。事情を知らない一般的な読者になり切って、その人に自分の伝えたいことが届くかどうか、徹底的にシミュレートする。少なくとも自分はそうしていて、文章を書く際には少なくとも5回以上通して読み直すし、論理的な整合性や表現、文章の構造や読む際のリズムまで手を入れ直し尽くす。何百人、何千人に対して読んでもらいたい文章なのだから、そこまでの手間を投入するのは悪い投資では無い。

*1:現在は様々な読者からの指摘を受けて全文を掲載されているが、ここでは公開当初の記事の問題点を指摘したいため、修正前の表現を掲載する

*2:そういったギャグを入れたくなる気持ちは痛いほど分かる。自分もこの記事につまらないギャグを一杯散りばめてしまった。