打ち首こくまろ

限界オタクの最終処分場

セットリストとミリオン8thライブ

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 ロックが好きなのでロックバンドのライブによく行く。

 当然そのバンドのジャンルによって、雰囲気も客層も全く違う訳なんだけど、そのライブが開かれる動機を物差しにして、ライブは乱暴に二つに分けることができる。 「レコ発ライブ」「その他のライブ」だ。

 「レコ発ライブ」は新しい音源を引っ提げてのライブ。ツアーであることもしばしば。「レコ」という単語が使われていることからも、古き良き時代から伝わる由緒正しき言葉だとわかる。

 「その他のライブ」は文字通りレコ発ライブ以外のライブを指す。「初の武道館ライブ!」だったり、「解散ライブ」だったり、「レコ発にする予定だったけど音源完成しなかったのでライブだけやりますライブ」だったり、色々とある。

 まぁ乱暴な二分法なんだけど、これが機能するのは開催されるライブの半数以上はレコ発ライブだからだ。

 で、自分はどちらが好きなのかと言えば、強いて言えば、のレベルではなく、圧倒的に「その他のライブ」の方になる。理由は「セットリストの自由度」にある。

 レコ発ライブのテーマとなる音源はアルバムであることが多い。アルバムは12曲ほど収録されることが多く、その大半がライブで演奏される訳なのだけど、ライブの曲数は全体で精々25曲ほど。セットリストの半分ほどを新規音源から引用する必要がある。

 ここで問題になるのは、そのアルバムの収録楽曲は全て同じクオリティという訳ではない、ということ。はっきり言って捨て曲としか言えない曲も混ざっていて、しかしそれも新曲には変わりないので、レコ発ライブではしっかり披露されることになる。

 楽曲制作能力の乏しいデビュー直後のバンドなんかはこれが一つの音源に複数曲あることも珍しくなく、しかもそれをセットリストの中にいい感じに隠蔽できるほどの持ち曲もない。結果、ライブ中に客席が冷える地獄の時間帯が発生しやすい

 実際、アルバムから捨て曲(と思われる曲)を続けて演奏した直後のMCで、ボーカルが恐る恐る「……大丈夫ですか? 盛り下がってないですか?」と問いかけて観客が苦笑する、という哀しすぎるライブに参加したことがある。レコ発ライブではこのような事故が発生しうるのだ。

 もう一つ問題なのは、アルバムはそれで一つの作品なのだということ。アルバムは単なる作品集ではなく、特定のテーマが掲げられそれに合致する楽曲が制作、ないし収録される事が多い。

 要はそれぞれの曲が一つの世界観に寄り添うようになってるんだけど、ライブではそれらの曲だけでなく既存の曲も出してこないと曲数が足りない。当然既存の曲は世界観を異にするため、新規楽曲と既存楽曲が連続で演奏されると違和感が生じる場合がある。

 特に顕著なのが、そのバンドがニューアルバムで表現方法をガッツリ変えてきた時。例えば今までギターロックを主軸にやってきたバンドが、いきなりギターを手放してピアノと電子楽器を主体としたエレクトロニカに傾倒したアルバムを出してきた時(そしてこれはいくつか実例がある)、セットリストにはギターロックとエレクトロニカが入り混じることになるため、「高低差で耳キーンなるわ!」と言いたくなるほど統一感のないライブになる。これらはいずれも、「ニューアルバムの曲を中心にセットリストを組まなければならない」という制約が課せられるレコ発ライブならではの欠点だ。

 「その他のライブ」ではそれらの制約が無い。自由にセットリストを構築することができる。観客が盛り上がるキラーチューンを連続で演奏することも、マニアが唸る隠れた名曲を披露することも出来る。制約がないから、セットリストをフルに使って、観客を最大限に楽しませることに集中できる。その自由度の恩恵は当然、観客である僕たちも受けることが出来る。

 ライブの感想では、あの曲が良かった、この曲も良かった、みたいな個別の曲の感想になることが多い。だけど、自分はその前後の曲の流れもすごく大切だと思っている。盛り上がる曲の直後に静かなバラードを奏でられると、前曲の余熱でその世界に浸るのに時間がかかり、静かなバラードの直後に盛り上がる曲を演奏されても、気持ちのギアを切り替えるのに時間がかかって付いていけない。

 そうじゃない。盛り上がる曲の後には盛り上がる曲を浴びて、どこまでも加速していきたい。美しいバラードの後には美しいバラードを聴いて、どこまでも深く潜っていきたい。そうして僕たちは、現地のライブでしか到達することのできない非日常感に到達することが出来る

 当然、盛り上がる曲を演奏し続けることはメロコアバンド以外には出来ないので、そのブリッジには適切にMCが挟まれる。そのMCにも各バンドの力量やスタンスがつぶさに現れる。ベテランバンドのMCはまた別の世界へとスムーズに誘ってくれる。あるいは、MCではほぼ一言も喋らず、独特の緊張感を保ったまま二時間走り続けるバンドもある。いずれにも共通しているのは、様々なバックグラウンドを持つ一つ一つの曲を橋渡しして、一つのライブという無形の作品を作り上げていることだ。

 ライブというのは、単品の曲を20数曲並べる発表会ではなく、様々な曲を引用して一つのライブという無形の作品を作り上げるというものだと思う。同じ音源を渡しても、プロのDJと素人DJとでは曲の繋ぎ方にも盛り上げ方にも雲泥の差があるように、ライブの出来というのは、単品ごとの歌やパフォーマンスの良さだけでは測れない。むしろ、そのクオリティの大部分は、セットリストの構成が担っているのでは無いかと思ってしまうほど。いつもイヤホンを通して聴いている曲がライブでは全く違って聞こえるあのマジックは、日常に疲弊した僕たちを非日常へと誘ってくれるのは、練りこまれたセットリストの存在が大きいのでは無いだろうか。

 だから僕は、ライブに行くときには、「どんなライブになるんだろう」と同時に、「どんなセットリストになるんだろう」というワクワクも胸に会場へと赴く。それぞれの曲の素晴らしさはもちろん、それをさらに引き立たせるセットリストの妙によって、ライブはさらに素晴らしいものになる。練り込まれたセットリストには神が宿る。そう信じて、僕は今日もライブに行くのだ。








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 こうして長々とポエムを書いたのは、先日参加した「THE IDOLM@STER MILLION LIVE! 8thLIVE Twelw@ve (以下、8th)」を今からdisってしまうからである。いきなりdisアクセル全開だと読者の反感を買ってしまい逆に自分の身を滅ぼしてしまう危険性があるので、あらかじめ自分の価値観をみなさんにインストールしておいて、自分の主張の納得性を少しでも高めておこうという姑息な狙いがある。それでも反感を買ってしまうという方、ごめんなさ〜い! ラッキーアイテムはNumLockキーです。

 まぁ徹底的にdisろうという気持ちは別にあまり無くて。映画が好きで映画を見続けているといつかは実写版デビルマンを引いてしまうものだし、自分もライブそこそこ参戦してるので、自分にとってのジョーカーを引いてしまったのがこのタイミングだったという話でしかない。ただ、これを機会に自分がライブで大切にしてる価値観を改めて言語化しておこうと思ったのがこんな文章を書いてる動機だ。

 まず、8thライブはどういうものだったかというと、「Million Theater W@ve (以下、MTW)」というCDシングルシリーズの「レコ発ライブ」になる。一年半かけて発売してきたこのシリーズでは、それぞれのアイドルがそれぞれのユニットを組んでそれぞれの曲を歌っているのだが、このライブでそれらのユニットが一堂に会し新曲を披露していく…… というライブだった。

 「レコ発ライブそんな好きじゃ無いくせに行って嫌な思いしてdis記事書いてんの?」と思われるかもしれないので一応弁明しておくのだけど、ライブタイトルからしてMTWシリーズの楽曲を押し出したライブになることは明らかなので、当然その点は織り込んだ上で参加した。前半でレコ発ライブについての不満や欠点を訥々と書き下したのだけど、レコ発ライブ自体が嫌いという訳ではないし、レコ発ライブの欠点を補ってあまりあるほど素晴らしいライブは沢山あるし、これまでにも沢山参加してきた。この8thライブも、セットリストの構成によって素晴らしいライブにしてくれるだろうという期待を胸に参加した。参加したのだが...

 そのセットリストの構成はこうだ。8thライブは2days開催となるのだが、MTWには12ユニット登場するため、出演者として各日にそれぞれ6ユニットが振り分けられる。ライブのオープニングが始まるとそのまま全体の歌唱曲を歌うこともなく1ユニット目がいきなり登場。1曲目を歌って自己紹介&MC、そのあと2〜3曲目を歌って退場。その次に2ユニット目が登場して3曲歌って退場。この流れを6ユニット目まで繰り返す。それが終わったら全員登場して長めのMCやって、ユニット合同で5曲ほど歌って、最後に全体曲を歌って本編終了。

 Twitterとか見ると良いライブだったと言ってる人が大半だから自分の意見が完全に極端なことは分かってるんだけど、このセットリストの構成、自分にとっては本当に、本当に、絶望を絵に描いたようなセットリスト。

 この構成の何が嫌かって、ユニットの切り替わりごとに雰囲気がリセットされること。それぞれのユニットが登場して頑張って3曲歌う訳なんだけど、そんな曲数でそれぞれのユニットの雰囲気が出せるわけもなく、精々20分の出演時間が終わると「○○でしたーありがとうございましたー!」と舞台袖にハケていき、「私たち、○○ですー!」とまた別のユニットが自己紹介して3曲歌って帰っていく。これを6回繰り返していたのだ。

 当然、各ユニットごとにテーマも何もかも違うわけなので、そのユニットの切り替わりに連続性は一切無い。ダンサブルで盛り上がるユニットが出てきて身体が温まるかと思ったら、大人っぽいシティポップを歌うユニットが出てきてスン...となり、その雰囲気が会場を満たさないうちにまた別のユニットに切り替わる。持ち曲の少ないインディーズバンドの5マンライブじゃねぇんだぞ。結果、気持ちが盛り上がりきることなく、浸りきることもなく、生煮えのまま最後までライブが終わってしまった。

 「そうは言っても、ミリオン6thも同じような構成だったでしょ?」という声も聞こえてきそうではある。確かに、6thも別のCDシリーズを引っ提げてのライブで、ユニットごとにぶつ切りの構成なのも8thと同じ。そして、自分にとって6thも「心から最高!」と言えるライブではなかった。ただ、6thは「良いところもあれば受け入れられないところもある」ライブだったのに対し、8thは「個人的に全面的に受け入れられない」ライブになってしまった。

 6thのライブのテーマは「ユニットの再現」で、短い出演時間の中に各ユニットの雰囲気をなんとかして出そうと様々な趣向を凝らした演出が施されていた。夏祭りをテーマにしたユニットは外部の和太鼓グループを招聘して演奏してもらう、ミュージカル風の曲を歌ったユニットは曲を歌う代わりに長尺のオペラをやる、オルタナティブロックがテーマのユニットは全体的にアングラな雰囲気を出しつつ弾き語りも取り入れる、など。

 結果的に、「偶発性やインタラクティブ性のあるライブ」というよりも、「台本の決まったショー」という趣が強くなり、ライブを期待した自分としてはかなりのガッカリ感があったのだが、やろうとしてる事は無茶苦茶理解できた。「ライブ性を犠牲にしてでも、ユニットの実在性を際立たせるライブにしよう」としてるのだな、と。

 8thにはそれが無い。実在性を出そうとする試みが全く無かった。

 いや、全く無いは言い過ぎで、ユニットによってはバックバンドを携えたり、ミュージカルダンサーを出したりしていた。しかし、6thに比べると要素が薄すぎるし、何より半分以上のユニットがそうした試みというか施策が全く無かった。3曲歌って帰るだけ。ライブ感を犠牲にしたセットリストの構成にしているのに、それを犠牲にして何を実現しようとしていたのか、全く分からなかった。

 もう一つ付け加えると、ライブのオープニングで全員歌唱するのではなく、いきなり一曲目から各ユニットの登場に回すという構成も、「8thライブ」という一つのライブではなく、各ユニットの合同6マンライブという趣を強くしているように思えた。これにより8thライブというライブ全体のテーマが見えなくなり、各ユニット間の連続性がさらに切断されているように感じられた。

 「ショー」として見れば満足できた6thに比べて、8thはショー性は6thに比べるとほとんど無いし、ライブ性として見ても上述の通り。周年ライブとしても、この一年の集大成、みたいなエモい雰囲気も全くなく、残念ながらそれぞれのユニットがレッスンした曲の発表会、という雰囲気を強く感じてしまった。1万円と交通費とコロナに罹患するリスクを支払って鑑賞するのに見合う価値は、正直自分には見出せなかった。

 ただまぁ、MCでキャストも吐露していたように、このご時世だし裏側でかなりのゴタゴタがあったことは想像がつく。パフォーマンス中にも練習が間に合わなかったんだろうなと感じさせられる場面がいくつかあったし、このような構成になってしまったのも、何かしらの止むに止まれぬ事情があったのかもしれない。それでも、こちらは安く無いチケット代に加えアソビストアプレミアムの年会費を支払っているのだから、こうしてこっそり文句を吐き出すくらいは許されるだろうとは思ってる。

 唯一楽しめたのは、ある青春系ピアノロックバンドユニットが、他のアイドルが歌うギターポップロックの曲をピアノロックにアレンジして披露したこと。これは本当に素晴らしい試みだと思っていて、あんな感じで既存の曲を各ユニットに引き寄せて解釈して演奏するというのは、そのユニットの輪郭をさらに際立たせることにもなるし、これまで聴き親しまれていた曲に新たな解釈を吹き込むことにも繋がる。このような試みが8thライブの中にもっとあれば、もっと楽しめたと思う。

 ここまで酷評した8thライブだけど、一方で心の底から楽しめた人が大多数だと思う。以前、周りのオタク仲間たちに「6thみたいなぶつ切りのセトリって良くないよね?」と熱弁してもあまり共感してもらえなかったし、曲の流れとかライブ性とかよりも他のことを重視している人の方が多数派なんだろう。声優アイドルライブに行ってる割には、キャストの顔とか衣装とか存在とかキャラクターの実在性にはあまり興味が無くて、ほぼ純粋に曲とパフォーマンスを楽しみに行っている自分はかなり特殊な楽しみ方をしているのかもしれない。立っている位置が違うからこそ、同じものを見ても真逆の感想を抱くのだろう。

 ここまで書いてきて思い出したんだけど、自分のアイマスライブ初参加は友人に連れて行ってもらった2017年のハッチポッチフェスティバルで、ほとんど何も予習することなく臨んだわけなんだけど、そこで披露されたセットリストというのは音楽のジャンルの垣根を縦横無尽に駆け抜けるもので、今までロックライブしか行ったことのなかった自分は「こんな楽しいライブがあるのか!」と衝撃を受けたのを覚えている。その後、初星宴舞やミリオン5thにも参加して、当然曲やキャストのパフォーマンスにも満足したんだけど、やはりその楽しさの根底にあったのは、「次に何が飛び出してくるかわからないセットリスト」の存在も大きかったと思う。「次はどういう曲が来るんだろう?」というワクワクが、僕をライブの熱狂に引き込んでいた訳だ。

 その後、6thライブで複雑な感情になり、7thライブで「やっぱりミリオンライブは最高やなぁ」という気持ちになって、この8thライブで一気に虚無になってしまった訳なんだけど、まぁ周りを見回してみても、メディアミックスコンテンツのライブでは舞台上で原作を再現しようとするショー化が進んでいるのかなと思う。それを喜ぶ人は多分多いと思うのでビジネスとして積極的に進めるべきだとは思うんだけど、そのような予定調和を是とするライブは自分が楽しめるライブの形ではないし、ショーを見るのならば、舞台の見えづらい現地よりも、そのリスクのない配信やライブビューイングの方が圧倒的に楽しみやすいし安価だなと思ってしまう。実際、2日目は現地チケットを払い戻して配信で見たんだけど、ショーとして鑑賞すると1日目よりは楽しむことができた。

 9thがどのようなライブになるのかは分からないけれど、もしアニメ化と合わせてアニメに準じた構成になるのならちょっと自分向きではないかもしれない。今までミリオンライブのライブは無条件に参加してきたんだけど、今後はライブの内容について慎重に見極めていきたい。

競技プログラミングで大切なことを再発見した話

 仕事ではもっぱらGoを使っているのだが、最近は新しくelixirを勉強している。

elixir-lang.org

 関数型言語であり、コードをシンプルに保つことが出来て可読性が良い。信頼性のあるErlang VMの上で動作するので堅牢でもあり、モダンな言語らしく並列実行やプロセス間通信が簡単に実現できる。

 そして何より名前がカッコイイ。Elixir、不死の霊薬である。そしてWebフレームワークの名前はPhoenix、Elixirを使うエンジニアはAlchemistと呼ばれる。厨二心がくすぐられる。

 Elixirを学ぶ際には、公式のGetting Startedが非常によくまとまっている。ここで基本的な文法についてはあらかた学んだので、次のステップとしてAtCoderにチャレンジすることにした。

atcoder.jp

 AtCoderは日本発の競技プログラミングコンテストサイトで、様々なレベルのオンラインコンテストが毎週開催されている。さらに、過去のコンテストの問題は全て公開されており、その全ての問題にチャレンジすることが出来る。

 その中でもAtCoder Beginners Selectionは、競技プログラミング初心者に向けた良問が取り揃えられている。学んだばかりの言語を書き慣らすにはうってつけだと思い、このコンテストの問題を解いていくことにした。

 競技プログラミングの問題を解くのは学生時代以来数年ぶりだった。当時はAtCoderは存在せず、TopCoderというアメリカのサイトが競技プログラミングのメッカだった。全世界から参加者が集まる関係上、開催時間が日本時間の深夜であることも多く、夜中に起きてられない自分は中々参加することは出来なかった。その頃に比べると、日本の競技プログラミングの環境は飛躍的に良くなったと感じる。

 本気で取り組んでいたわけではなく、ダラダラと1年ぐらい続けて動的計画法すらマスターできずにやめてしまったのだが、社会人になる前に、競技プログラミングを通してコーディングの基礎をしっかり固めることが出来た。会社に入ってから、Subversion/gitの使い方とか、テストコードの書き方とか、リーダブルなコードを書くことの重要性とか、学ぶことはたくさんあったのだけれど。

 AtCoder Beginners Selectionには以下のような問題がある。

シカのAtCoDeerくんは二つの正整数 a,b を見つけました。 a と b の積が偶数か奇数か判定してください。

 なんのことはない、aとbを掛けて2で割った余りを判定するロジックを書けばいい。肩慣らしには丁度いい問題だ。

 以下のような問題もある。

N 枚のカードがあります. i 枚目のカードには, aiという数が書かれています.
Alice と Bob は, これらのカードを使ってゲームを行います. ゲームでは, Alice と Bob が交互に 1 枚ずつカードを取っていきます. Alice が先にカードを取ります.
2 人がすべてのカードを取ったときゲームは終了し, 取ったカードの数の合計がその人の得点になります. 2 人とも自分の得点を最大化するように最適な戦略を取った時, Alice は Bob より何点多く取るか求めてください.

 文字だけだと少し分かりづらいが、要は床にばらまかれているカードを順番に取っていって、その合計数が多いほうが勝ちというゲーム。Aliceが先に取るため必ずAliceの方が勝つ出来レースになっているのだが、「Alice は Bob より何点多く取るか」はどう求めたらいいのだろうか。

 「自分の得点を最大化する最適な戦略」とは何だろうか。床にあるカードはどれでも好きに取って良いのだから、当然数字が一番大きなカードを選ぶ。次の手番では、その次に大きなカードを選ぶ。つまり、AliceとBobはカードの数字を降順にソートしたものを交互に取っていくはずである。つまり、

  • カードの数字を降順にソートする
  • 1枚目はAlice、2枚目はBob、3枚目はAlice...のように交互に振り分ける
  • それぞれの持っているカードの数字の合計を計算する
  • Aliceの合計から、Bobの合計を引く

 とすると、求める答えに辿り着くことが出来る。

 最初は上記のような方針でロジックを書いていこうとしていたのだけど、途中で行き詰まってしまった。愚直にコードを書くことは出来るのだけど、どうもelixirっぽくなる気がしない。

 elixirでは|>という演算子を使って、データの処理の流れを一直線に書いていくことが出来る。しかしAliceとBobにカードを振り分ける部分でどうしてもその流れが途切れてしまう。悩んだ結果、以下のようにロジックを修正した。

  • カードの数字を降順にソートする
  • 先頭から順番に2枚ずつにグルーピングする
  • それぞれのグループで、1枚目と2枚目の差を計算する
  • その差を合計する

 このようにするとelixirっぽく書くことが出来た。AliceとBobの最終的な合計の差を計算しているわけではないが、1ターンずつ積み上がっていく差を合計する事によって、知りたい答えと同じものを求めることが出来る。

 以下のような問題もある。

英小文字からなる文字列 S が与えられます。 Tが空文字列である状態から始め、以下の操作を好きな回数繰り返すことで S=T とすることができるか判定してください。
- T の末尾に dream dreamer erase eraser のいずれかを追加する。

 単純なようだが意外と難しい。文字列Sの先頭がdreamerとなっていても、それが本当にdreamerなのか、dreamerase、またはeraserがくっついた形なのか、判断がつかないからだ。Sは1万文字に達することもあり、試行錯誤しながら文字列を組み立てていくロジックを組むと、あっという間に実行時間が超過する。

 必要なのは発想の転換だ。文字列を先頭から見るのではなく末尾から見ていくと、それがdreamerなのかeraserなのか一意に定まることがわかる。この方針で行けば良さそうだ。

 さらに、文字列を組み立てていくのは時間がかかる。文字列を組み立てていく代わりに、文字列の末尾からdream,dreamer,erase,eraserに当てはまるものを消していき、最終的に文字が全て無くなれば、Sは組み立て可能だと判断することが出来る。最終的なロジックは次の通り。

  • 文字列Sを逆にする
  • 文字列の先頭からmaerd, remaerd, esare, resareに当てはまるものを順番に消していく
  • 空文字列になるかどうかを判定する

 問題では「与えられた文字列のリストから特定の文字列を組み合わせることが出来るか」なのに対し、やっていることは文字列の消去、さらに見ているのは与えられた文字列の逆である。しかし、これでも知りたい答えは手に入る。解く問題が変わったとしても、知りたい答えさえ手に入ればいい。

 問題を解いている間、すごく懐かしい気分になった。競技プログラミングをやりはじめの頃、難しそうに見える問題でも愚直にロジックを書いた。大抵そのコードはバグにまみれているか、実行時間制限を軽く超過してしまう。徒労感に覆われたままコンテストが終了し、他の出場者のコードを見ると、そのエレガントなコードに驚かされた。コードの見た目やコードサイズの話ではなく、「与えられた問題Aを解くことになる別の簡単な問題B」を見つけていることに驚かされていた。

 数学の対偶証明と同じように、ある命題Aを証明することが難しくても、その対偶Bを証明することができれば、Aを証明したことと同じことになる。同じことが競技プログラミングの世界でもあって、与えられた問題Aが難しければ、その問題が解けたことになる別の問題Bを見つければいいのだ。

 ここまで考えて、そういえば仕事でも同じような思考をしていることに気がついた。あまり具体例は書けないんだけど、自分は社内システムを担当していて、ユーザからよく「○○の機能を追加してくれ」と言われる。ユーザが考えるものなので仕方がないのだけど、その機能は工数が物凄くかかったり、そもそも実現不可能だったり、実現できたとしても明らかにユーザが使いこなせなかったりする。そのまま実装するのは、地獄へと続く一本道だ。

 そうした時には「そうおっしゃるという事は▲▲に困っているということですよね? であれば、□□とすれば解決できそうなのですが、どうですかね?」と切り返すことが多い。□□の部分には、別の機能の提案だったり、既に実装している機能の活用法だったり、自分の担当外の別のシステムを紹介したり、色々なものが入る。

 「機能を追加してくれ!」と言われて、追加する/追加しないの二択で考えるのでは泥沼にハマる恐れがある。「機能を追加してほしい」という要望はある問題を解くため、にユーザ側が何とかして編み出した解決法である。エンジニア側はその解決法をそのまま実装しようとするのではなく、同じ問題を解決したことになる別の簡単な解決法はどこにあるのか、模索する必要があると考えている。簡単に解決できれば、ユーザにとっては早く業務が改善できることになり、エンジニア側にとっては楽してお賃金を稼げることになる。

 この考え方のルーツを意識したことはなかったのだが、競技プログラミングの問題を解いていくうちに、ここが自分の仕事の仕方の原点だったんだなと思い出してきた。競技プログラミングは仕事では役に立たないという意見は未だに根強い。確かに、上級コンテストに出てくるような高度なロジックを必要とする業務は一般的な企業には存在しない。それでも少なくとも、競技プログラミングを通して得られる考え方は、実際の業務においても有用なのではないだろうか。競技プログラミングを通して再発見した考え方を、これからも大事にしたいと思う。

2021年凱旋門賞注目出走馬展望

 いよいよ、10/3(日)は凱旋門賞である。第100回という記念すべき今回には、史上最強とも言われるメンバーが集結した。

 日本馬も2頭参戦するが、有力な外国馬を知っておくことで、レースはもっと面白くなる。ここでは日本馬2頭に加え、それを迎え撃つ有力海外馬6頭を紹介していく。

 以下で使用している画像は、いずれもJRA-VANからの引用である。

出走馬紹介

🇯🇵 クロノジェネシス(牝5) - 時代と想いを紡ぐ、日本が誇る現役最強馬

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  父: バゴ 母父: クロフネ

 ジェンティルドンナリスグラシュー、アーモンドアイ、グランアレグリア...

 この10年は、歴史を塗り替えた牝馬が多数登場した、まさに牝馬最強時代」。その真打になるのかもしれないのがクロノジェネシスだ。

 善戦はするものの、GIタイトルまではなかなか手が届かなかったクロノジェネシス。彼女が初めてGIを勝ったのは秋華賞(GI)。デビューから手綱を握ってきた北村友一にとっても、嬉しいGI2勝目となった。この勝利を機に、クロノジェネシスは覚醒する。

 翌年の京都記念(GII)では強豪馬を一蹴。大阪杯(GI)では先輩牝馬・ラッキーライラックに首差敗れたものの、次戦の宝塚記念(GI)ではそのお返しとばかりに6馬身差の圧勝。先輩牝馬もろとも、強豪牡馬さえまとめて粉砕する衝撃的な圧勝劇だった。

 その後、有馬記念(GI)を横綱相撲で完勝。同期にはアーモンドアイがいたため年度代表馬の座は逃したものの、グランプリ連覇の偉業が評価されJRA特別賞を受賞した。

 北村友一は、GIを何勝もするような華やかなジョッキーではない。しかし、彼を背にどこまでも快進撃を続けていく様は、ある種の「人馬の絆」を感じさせるものだった。今年緒戦のドバイシーマクラシック(GI)では2着。しかし、ヨーロッパ最強クラスの強敵・ミシュリフ相手に首差。「この人馬で凱旋門賞を!」期待の声は日に日に大きくなっていった。

 しかし、北村友一は5月に落馬事故に遭ってしまう。背骨を8本骨折、まともに歩けるようになるまで1年以上という重傷。今年で引退となるクロノジェネシスには、もう騎乗できなくなってしまった。

 宝塚記念(GI)では、日本のリーディングジョッキーであるクリストフ・ルメールに手綱が渡った。結果は2馬身差の完勝。グラスワンダー以来21年振りのグランプリ3連覇。名実ともに、現役最強の座に就いた瞬間だった。

 凱旋門賞ではさらにオイシン・マーフィーにバトンが渡る。弱冠26歳ながら、既にGIを15勝以上している一流ジョッキー。そして日本馬への騎乗経験も多数あり、ディアドラとスワーヴリチャードでGIを2勝している。日本馬の性質を、強さを知り尽くしたジョッキーが跨がるのであれば、クロノジェネシスにとってはこの上なく心強いだろう。

 第100回を数える歴史ある凱旋門賞。そこに何十頭もの日本馬が挑んで、敗北してきた歴史がある。その歴史に終止符を打つのは、この大仰な名前を背負った彼女こそ相応しいのかもしれない。日本の夢を、そして相棒の想いを乗せて、現役最強馬・クロノジェネシスが新たな歴史を紡ぐ。

🇯🇵 ディープボンド(牡4) - 才能開花、スタミナに全てを懸ける!

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  父: キズナ 母父: キングヘイロー

 今年の凱旋門賞出走馬では少数派となったGI未勝利馬・ディープボンド。昨年の菊花賞では同馬主であるコントレイルの三冠をサポートする役回りとなったが、別路線を歩むようになってからは頭角を表してきた。

 年明けの中山金杯(GIII)では惨敗したが、次走の阪神大賞典(GII)では重馬場を味方につけ5馬身差の圧勝。本番の天皇賞(春)(GI)でも、勝ち馬に際どく迫る2着。パワーとスタミナに勝る現役屈指のステイヤーとして名を馳せるようになった。

 ディープボンドはレースの数週間前から現地入りし、前哨戦のフォワ賞(GII)に参戦。フォワ賞凱旋門賞と同一コース・同一距離で行われ、凱旋門賞に向けた重要ステップレースの一つに位置付けられる。ここでは6頭中5番人気と低評価だったが、GI馬相手に逃げ切り勝ち。現地の馬場に適性があることを証明するとともに、本番にも大きな期待を持たせる結果となった。

 ちなみに、これまでフォワ賞を制した日本馬はエルコンドルパサーオルフェーヴルの2頭であり、2頭とも本番では2着と好成績を収めている。そしてこの2頭のレースは、いずれも凱旋門賞における歴史的なシーンとして刻まれている。エルコンドルパサーモンジューとの死闘を演じ、「勝者が2頭いた」と称えられることとなった。オルフェーヴルは直線半ばで先頭に立ち圧勝するかと思いきや、まるで手中に収めた勝利をかなぐり捨てるかのように急失速。その信じられない負け方は、今でも語り草となっている。

 父・キズナは3歳時に凱旋門賞に挑戦し4着、その後は怪我もあり思うような結果を残すことはできなかった。「深い絆」との名を与えられたディープボンドが、父から受け継いだ夢を叶えることが出来るだろうか。GI未勝利馬、しかし前哨戦覇者が、凱旋門賞に堂々と波乱を巻き起こす。

🇮🇪 スノーフォール (牝3) - 日本馬を迎撃する日本生まれの天才少女

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 父: ディープインパクト 母父: ガリレオ

 2020年に引退した牝馬・エネイブル。19戦15勝GI11勝、うち凱旋門賞2連覇という凄まじい成績を残した彼女は、6歳の凱旋門賞で6着に敗れたのを最後に、惜しまれつつターフを去った。そのエネイブルと入れ替わるように台頭してきたのがスノーフォールである。

 スノーフォールは日本で生まれ、ヨーロッパへと旅立った3歳牝馬。父・ディープインパクトはもはや説明不要の伝説。母父・ガリレオも、ヨーロッパでは知らぬ者のない大種牡馬。スノーフォールは、日本とヨーロッパのスーパーサイヤーの血の結実なのである。

 2歳時は7戦1勝と全くパッとしない戦績だったが、3歳になってクラシック路線へ歩みを進めると覚醒。イギリスオークス(GI)で16馬身差という歴史的圧勝を演じてみせ、一躍世界中の注目を集めるシンデレラガールとなった。

 その後もアイルランドオークス(GI)を8馬身差ヨークシャーオークス(GI)を4馬身差でそれぞれ圧勝。牝馬最強であることは間違いない。現役最強でもあるのかもしれない。もしかしたら、あのエネイブルに肩を並べる存在なのかもしれない。競馬ファンの期待は、レースを重ねるごとに大きくなっていった。

 しかし、前走のヴェルメイユ賞(GI)では同世代の牝馬相手にまさかの敗北。レースが超スローペースになってしまったためという見方もあるが、5月から休みなく走り続けて5戦目、疲れが出てきてしまっている感は否めず、彼女に対する評価は下がってしまった。凱旋門賞までのレース間隔は約3週間、この短い期間で立て直すことが出来るか、不安材料であることは確かである。

 しかし、エネイブルは同じようなローテーションで凱旋門賞を完勝している。そしてスノーフォール自身も、イギリスオークスを16馬身差で圧勝するように、並外れたポテンシャルを持っている馬である。ワンダーホースに常識は通用しない。仮に十分立て直せなかったとしても、その状態でさえ凱旋門賞を勝ててしまうかもしれない。

 ディープインパクトは2006年に凱旋門賞に挑戦したが、そこでは3着に敗れた上、禁止薬物検出による失格処分という憂き目に遭ってしまった。あれから15年、父の無念を晴らすべく、その娘が凱旋門賞へと立ち向かう。勝てば日本で生まれた馬として初めての勝利。日本で生まれた才女が、日本からやって来た2頭を堂々と迎え撃つ。

🇬🇧 アダイヤー (牡3) - ダービー馬のプライドを胸に

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 父: フランケル 母父: ドバウィ

 日本で行われるダービーは日本ダービーアメリカのケンタッキーで行われるダービーはケンタッキーダービーと呼ばれる。それでは、イギリスで行われるダービーは何と呼ばれるだろうか?

 「ザ・ダービー」である。ザ・ダービーと言えばイギリスのダービー、1780年に創設された世界最古の3歳馬最強決定戦のことを指す。ケンタッキーダービー日本ダービーも、世界各地で開かれるダービーは全てこのレースを範にとったものだ。200年以上の歴史と伝統という重厚なバックボーンに加え、目も眩むような数々の名馬を輩出してきたという実績から、イギリスダービーは今も世界の競馬の最重要レースの一つであり続けている。そしてアダイヤーは、その第242代目ダービー馬である。

 しかし、そのダービーの威光は今や陰りを生じている。ここ5年でダービーを勝った馬は全て人気薄、そしていずれもその後全く実績を残せていない、という事態が続いている。その謗りを、アダイヤーもまた免れることはできなかった。実際アダイヤーがダービーを勝利したとき、彼自身が7番人気であり、しかも2着馬に至っては最低人気の未勝利馬。史上稀にみる低レベルのダービーとの声も上がった。

 しかし、次走その評価は一変する。次走で上半期ヨーロッパ最強馬決定戦の位置付けであるキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(GI)に出走すると、GI4勝のラヴ、今年のドバイシーマクラシック(GI)でクロノジェネシスをねじ伏せたミシュリフ相手に完勝。一躍王道路線の主役に名乗りを上げると同時に、これはイギリスが誇る「ザ・ダービー」復権の狼煙でもあった。

 近年最強のダービー馬であることを照明したアダイヤーは、この凱旋門賞ヨーロッパ三大レース制覇の大偉業がかかることになる。イギリスダービーキングジョージ6世&クイーンエリザベスS、そして凱旋門賞はヨーロッパ三大レースとして括られているが、これを同一年内に制したサラブレッドは、"神の馬"ラムタラ以来26年現れていない。この重い歴史の扉をこじ開けることが出来るのか。ハイレベルと呼ばれる今年の3歳世代、その頂点に立ったダービー馬が、そのプライドを胸に凱旋門賞に挑む。

🇬🇧 ハリケーンレーン (牡3) - 同期へのリベンジを誓って

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 父: フランケル 母父: シロッコ

 ハイレベル3歳世代ならこの馬も忘れてはいけない。アダイヤーと同世代、同じ馬主、同じ厩舎、そして同じ父の血を引くハリケーンレーンもまた、有力視される3歳牡馬である。

 デビューから3連勝でGIIレースを勝利、2番人気でイギリスダービーに乗り込むが、そこではアダイヤーはおろか、未勝利馬からも大きく離れた3着に敗れ、初めての挫折を味わう。しかし、挫折が人を強くするのと同様、ハリケーンレーンもまた、このレースを機に一気に変貌を遂げる。

 次走のアイルランドダービー(GI)では、前を行く逃げ馬が直線で後続を引き離し勝ちパターンに持ち込んだところを強引に捻じ伏せ首差の勝利。3着以下は7馬身離していた。そしてパリ大賞(GI)では横綱相撲で6馬身差の圧勝、日本の菊花賞にあたるセントレジャーS(GI)も完勝を収める。気付けば7戦6勝GI3連勝。同世代の牡馬たちを完膚なきまでに叩きのめして、凱旋門賞まで駒を進めた。

 父・フランケル14戦14勝GI10連勝という意味不明な戦績を残したヨーロッパ史上最強馬。その産駒は世界中で数々のGI勝ちを収めているが、フランケルの子供で凱旋門賞を制した馬はまだ現れていない。4連勝でここを突破し、フランケル産駒の一番星となることは出来るだろうか。同時にこのレースは、同じ父の血を引き、ダービーで唯一の敗北を喫することになったアダイヤーへの、3歳牡馬最強の座を賭けたリベンジマッチでもある。

🇮🇪 タルナワ (牝5) - 遅れてきた大女優

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 父: シャマルダル 母父: ケープクロス

 3歳までに重賞を3勝したものの、GIでは幾度となく跳ね返されてきたタルナワ。しかし翌年はヴェルメイユ賞(GI)、オペラ賞(GI)と連勝、そして遥か海を渡り、アメリカのブリーダーズカップターフ(GI)でも完勝。遅咲きの花は、GI3連勝で大輪の花を咲かせることになった。

 前走のアイリッシュチャンピオンS(GI)では2着に敗れたが、その勝ち馬・セントマークスバシリカはこのレースでGI5連勝を果たした3歳牡馬。そしてタルナワは2400mを得意とする馬なのに対し、このレースは2000m戦。タルナワ自身の強さには少しも疑問符は付かないだろう。ちなみに、セントマークスバシリカは残念ながらこのレースを最後に引退している。

 勢いに乗る3歳馬を相手にすることになるタルナワ。しかし、実績の上では少しも引けを取ることがない。2400mレースに対する豊かな経験、そして馬場コンディションを問わない万能性を武器に、74年振りの5歳牝馬による凱旋門賞制覇に挑む。

🇮🇪 ラヴ(牝4) - 煌めくステージで、あの輝きをもう一度

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 父: ガリレオ 母父: ピヴォタル

 昨年は3戦しかしていないが、その内訳は1000ギニー(GI)、イギリスオークス(GI)、ヨークシャーオークス(GI)、しかもいずれも4馬身以上の圧勝。ラヴというシンプルな名前のこの馬は一躍スターダムに上り詰め、ヨーロッパ最優秀3歳牝馬に輝いた。

 今年緒戦のプリンスオブウェールズS(GI)は人気に応えてGI4連勝。しかし、その後はアダイヤー、ミシュリフに敗れ、前走のGIIレースでも格下の相手に屈してしまった。その後もスノーフォール、ハリケーンレーン、セントマークスバシリカなど、年下の3歳馬の台頭が相次ぎ、ラヴに対する注目はすっかり下火に。GI4連勝の輝きは遥か彼方、彼女は今、世代交代の波に飲まれようとしている。

 ブックメーカーのオッズの上でも6番人気。しかしGI4連勝という肩書は、上位人気馬に対して全く引けを取らない。復活を印象付けるのには絶好の舞台。世界の注目を集めるステージで、再び輝きを取り戻したい。

🇮🇪 ブルーム (牡5) - 朋友が繋いだ道の上、レジェンドの夢が走る

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 父: オーストラリア 母父: アクラメーション

 凱旋門賞制覇は日本の夢、そして武豊の夢でもある。日本の誇るレジェンド・武豊凱旋門賞にはこれまで8度騎乗、3着に入ったことは2度あるが、しかしまだ勝利を掴めていない。近いようで遠い凱旋門というのは、武豊にとっても同じであった。「いつかは凱旋門賞に勝ちたい」と長年公言していた武豊だったが、勝つチャンスはおろか、騎乗するチャンスさえ思うように掴めないのが凱旋門賞武豊も52歳、いくらレジェンドとは言え、凱旋門賞制覇に向けて残されたチャンスは少なくなっていった。

 そこに現れたのは松島正昭という実業家。かねてから武豊と親交があったという松島は、武豊を重用する馬主として知られている。「夢は武豊を乗せて凱旋門賞を勝つこと」、そう公言して憚らなかった松島の夢は、しかし実現不可能な夢に思われた。夢を実現するために、松島はセールで高額馬を買い漁るが、そのどれも芳しい成績を収めていないのだ。これでは凱旋門賞に勝つどころではない。このまま高額馬を買って有力馬が出現するのを待つのでは、時間は無為に過ぎていってしまう。

 しかし、ここで松島は思い切った策に出る。なんと、フランスで走る現役競走馬を、馬主から直接買い取ったのだ。世界を股にかけて競馬事業を展開し、この凱旋門賞にもアダイヤー・ハリケーンレーンを出走させるクールモアグループ。彼らと1からパイプを作り、購入したのがこのブルーム。イギリスダービーで4着に入着した実力馬だった。

 購入後すぐは体調不良もあり思うように出走することが出来なかったが、今年緒戦で準重賞を勝利した後は8戦4勝2着3回と安定した成績を収めている。特に、その内の1つはサンクルー大賞(GI)。日本の競馬で思うような結果の出せなかった松島は、海外でGI初勝利を叶えることになった。

 前走のフォワ賞(GII)はディープボンドの2着に敗れたが、凱旋門賞にはGI馬として堂々と乗り込むことになる。鞍上はもちろん、武豊彼が勝てば当然、日本人ジョッキー史上初の凱旋門賞制覇である。異国の地で盟友が切り開いてくれた道。それを辿って、様々な記録に彩られたレジェンドの歴史に、一際輝く1ページを綴ることは出来るだろうか。

シャニマス水着騒動を考える

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 シャニマスで先日実装された水着衣装が、実在する既存製品の無断引用なのではないかと話題になっている。

 この件を眺めていて個人的に考えることが沢山あったので、思考の整理のために書いていきたい。シャニマスはほとんどプレイしたことがない(すみません)が、議論には影響がないはず。

事実の確認

 7/20、シャニマスがそれぞれのアイドルの新規水着衣装を発表。

 その約4時間後、ファッションブランドであるパルフェットが上記のツイートを行なった。一部のアイドルの衣装が自社商品のデザインに酷似しているとした内容である。

 酷似してるかどうかはそれぞれの人の意見によると思うのだが、「当事者からしたら『パクられた!』と思っても不思議は無いほどの類似度だな」という前提は全員が共有できると思う。

考える

 Twitter上でよく見かけた意見からいくつか抜粋して、一問一答形式で書くことで考えていきたい。

法的には問題ないから別にいいのでは?

 一部その通りで、おそらくシャニマス側は今回違法行為を行なっていない。パルフェットは該当の衣装を意匠登録していないため、法的に保護される対象ではない。パルフェット側もそれは認めている。

 じゃあ何が問題なのか? 陳腐な言葉だけれど、これはモラルの問題になる。

 極端な例として、今後シャニマスがアイドルの衣装を既存の製品から全てパクっていくことを考える。これには違法性が無いため誰もこの行為を止めることが出来ないのだが、パクられ側であるファッションブランドとしては一方的に搾取されているも同然である。自分達が一生懸命作ったデザインが、大手企業にフリーライドされて金儲けに使われているのだから。

 当然、シャニマスはファッション業界から敵視され、警戒されることとなるし、その悪評はそこかしこから漏れ出してくることとなる。結果的に、シャニマスのイメージは取り返しの付かない程深刻なダメージを受けることになる。

 前例としてウマ娘がある。実在の馬名を商業利用する場合でも馬主に許可を取る必要は法的にはないため、ウマ娘においても当初は許諾を得ることなくキャラクターをデザインしてプロモーションを行なっていた(と思われる)。しかし、その事が大手馬主から問題視され(たと思われ)、後の展開では相当数のキャラクターが姿を消すこととなってしまった(と思われる)。現在は各馬主に許諾を取った上で作品内に登場させている(これは確実)。

 ウマ娘もその気になれば、馬主の言うことも無視して突き進むこともできた。法的には何も問題はない。しかしそうしなかったのはモラルの問題、モラルを守ることがイメージを守り、利益を守ることに繋がると認識したからだろう。ウマ娘も現在、いくつかの衝突はあるが、競馬界とも良好な関係を築きつつ、コンテンツとして大きな成長を迎えている。これが多数の馬主から敵視されている状態で展開されていれば、こうはならなかっただろう。

 シャニマスにも同じことが言える。シャニマスはイラストの美的センスやファッション性が大きな魅力の一つだと思っているのだけど、そのようにファッション性を求めていくのであれば、最先端を走るファッションブランドのデザインを何らかの形で援用していくことは避けられない。そうであるならば、そのようなファッションブランドに敬意を払って、良好な関係を築いていくことが、結局はシャニマスというコンテンツの発展に繋がるだろう。そのメンバーの一人が不快感を訴えたのなら、しっかりとケアをしていくのがいいと思う。

今まで実在の服を描いても何も無かったのに、なんで今回だけ騒動になってるの?

 引用された側が不快感を表明しているから。

 シャニマスの過去のイラストの中には、既存の製品を引用して描いたものもある(らしい)。それが問題になってなかったのは、単に印象された側が何もリアクションしなかったからだろう。無断引用されたとして、「シャニマスにうちの製品が使われてる!」と嬉しくなる企業もいれば、パルフェットのように不快になる企業もある。考えられるリアクションが千差万別な以上、無断引用したからといって即問題とはならない*1

 しかし、今回は引用された側が不快感を持っている事が確定している。こうなると前述のようにモラルの問題になっていくので、シャニマス側としてはしっかりとケアしていくべき事態となっている。

ちゃんとした企業ならば当事者間で解決すればいい話なのでは?

 ここでは「ちゃんとした企業ならば」という言葉と、「当事者間で解決すればいい話なのでは?」という言葉に分けて考えたい。最初に言っておくが非常に嫌いな意見になる。

 まず「ちゃんとした企業ならば」という言葉について。これはかなり確信に近い推測なのだけれど、このように主張する人の「ちゃんとした企業ならば」という文字列におそらく意味は無い。これを主張する人は、その人が誰であれ話を表に出したこと自体に対して怒っていると確信している。

 なぜこう思うのかと言うと、同人誌朗読騒動でほぼ似たような構図があったから。これは大手VTuber2名がYoutubeの生配信内で、作品を特定できるかたちで成人向けBL同人誌内の一部セリフを読み上げた事件。同人誌の作者はそれに対して不快感を表明したのだが、VTuber側のファンの一部が「当事者同士で解決すればいい話を表に出すな!!」と一斉に作者を攻撃、大規模な炎上となった。

 同人誌朗読騒動を語ると非常に長くなってしまうのだが、この炎上の発端となった構図は、シャニマスの件にかなり似ている。「あるグループが違法ではないにしろモラル的に微妙なことを行う」->「当事者が不快感を表明する」->「当事者同士で解決しろ!! とグループのファンの一部が当事者を攻撃する」という一連の流れは、ある程度普遍的なものなのかなと思う。

 そして、同人誌朗読騒動では作者という「個人」が攻撃された。シャニマスの件の当事者であるパルフェットは法人なのだが、これはたまたま法人だったために「ちゃんとした企業ならば〜〜」という枕詞がついているだけだと思う。もし引用されたのがフリーランスデザイナーであったとしたら「ちゃんとした社会人ならば〜〜」と言われただろうし、芸大生なら「ちゃんとした学生ならば〜〜」と言われただけの話かなと思う。「ちゃんとした企業ならば」という言葉は、自分の言葉になけなしの正当性を確保しようとして付け加えた苦しい言葉だと思っている。

 後半の「当事者間で解決すればいい話なのでは?」だが、これは当事者に対して多くを求めすぎである。今回の件では、パルフェットがBNEIに当事者間の話し合いを持ちかけて解決を図るメリットは一切ない。話し合いでの解決は時間がかかるし、それだけ見解を発表するのが遅くなる。ならば、そんな面倒なことはせずに「うちの許可は取られてません」ぐらいは簡潔に言っておく、というのは普通の考えだと思う。そもそも、既にパルフェットはBNEIに対して悪感情を持っていると思われるので、そんな感情を持っている相手に対して話し合いをしろと強要するのは想像力が欠落しているのかなと思う。

 もっと言えば、「当事者間で解決すればいい話」というのは、警察に通報されて逮捕される羽目になったヤクザが被害者を逆恨みするのと同じロジックなので、非常に自己中心的だということをちゃんと理解しておくべきなのかなと思う。この被害者側が話を表に出したことで炎上に追い込まれる現象は最近よく目にするので、この行為は恥ずかしいことだとちゃんと名前をつけて啓蒙していくことが必要な気がする。「Webお礼参り」とかどうです?

パルフェットも過去アイマスロゴを無断引用していたしどっちもどっちでは?

 真偽不明なのだが、真実だとしても別問題なので切り分けて考えるべき。

 仮にそこを問題視したとしてもシャニマス側のイメージが上向くことは一切ないので、誰も得しない。

衣装デザインなんて似るものだし、全てをチェックするのは無理なのでは?

 本当にそう。きちんとしたチェック体制を敷いていても、世の中にはデザインが溢れかえっているため、全てをチェックするのは物理的に不可能。意図的にしろそうでないにしろ、既存デザインに酷似してしまう衣装が出る可能性を0にするのは絶対にできない。

 そもそも、シャニマスのような運営型ゲームは常にイラスト・楽曲・テキストなどの大量のコンテンツを投下しなければならないわけで、それら全ての類似チェックをすることなど不可能。なので、運営型ゲームではパクリ騒動・盗作騒動のようなインシデントは絶対に起こるものだという気持ちを、開発者としてもユーザとしても持っておくべきだと思う。

 インシデントは絶対に起こるもの。であるならば、運営が力を注ぐべきなのはインシデントが起こったその後の対応である。今回であれば、被害者側となったパルフェットに対するケア、騒動となってしまったイラストへの対応を表明することによるユーザへのケアが挙げられるだろう。運営の力量はインシデント予防よりも発生後の対応に現れると考えているので、シャニマス側の今後の対応を見守っていきたい。

 また、類似デザインが絶対に出てしまうのならば、いっそのことアイドルに着せる衣装を全て既存の商品から引用するのも手かもしれない。もちろん、予めブランドに対して許可を取ることは必要だが、さらゲーム中にもクレジットしたり、ゲーム内外で実商品を購入するための導線を整備すれば、シャニマスとファッション業界の関係も非常に良好になるだろうし、今までにない新しいビジネスモデルが作られるかもしれない。

無断引用よりも衣装ガシャの悪質さをもっと広めるべきなのでは?

 知らんけどがんばれ。

*1:当事者のリアクションを待つまでもなく明らかに問題だと言えちゃうケースもあるので、ここは程度問題

ウマ娘をきっかけに、二次創作のあり方を考えてみる

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 ウマ娘の人気は止まるところを知らない。それはセイウンスカイニシノフラワーの馬主、西山茂行氏の耳にも入るところになり、当初氏はそれを好意的に受け止めていた。

 そこに、セイウンスカイのエロイラストを書いてもいいですか?」と直接質問した人が現れ、そこに氏がOKのリプライを出すと、それを曲解した内容の引用RTを行ったアカウントが出現。氏の気分を害することとなり、上記のツイートの通り二次エロ創作は無事正式にNGとなった。

 上記はウマ娘アンチの捨て垢による犯行とも言われているらしいのだが、証拠は無い。ウマ娘が本当に好きなんだけど、頭も本当におかしい人間の可能性もある。いずれにせよ、ウマ娘がここまで多くのファンを抱えるコンテンツとなった以上、その中にはファンを装った狡猾なアンチもいれば、コンテンツの足を引っ張ることしか出来ない救いようの無い馬鹿もいる。そうでなくても、価値観の異なる大勢の人間がいる。コンフリクトの発生は避けられないし、遅かれ早かれこのような問題は起こったと思う。

 そして今回の場合、西山氏が大らかでファンキーな方のため、軟着陸させることの出来た幸運なケースだと思う。最悪の場合、ウマ娘からの馬名引き上げ、またはセイウンスカイニシノフラワーの二次創作が全面的に禁止となった可能性もあった。

 このような問題は今後も起こり続ける。色んな人が二次創作のコミュニティにいる関係上、これは避けようもない。このように、権利者を怒らせたり、二次創作が危機に瀕した時、私たちはどうすれば良いだろうか。

 先に自分の立場を話しておくと、自分はウマ娘以外の弱小コンテンツの界隈で1年に一度思い出したかのようにSSを書くだけ、あとはTwitterでイラストをバンバンRTするだけのバリバリの二次創作消費者である。バリバリの創作者側の目線になるとまた違った見方になるのだろうが、今回は自分から見たこの問題について話したい。そして自分の話すことが唯一絶対の正解だとも思っていない。

 そして自分のこの問題に対する結論はかなり過激なものになっていて、それは一線を超えた創作者は死ぬほどボコボコに叩いて打ち首獄門に処すくらいしかない、という野蛮極まりないものになる。それはコンテンツの権利者に対して、この二次創作の界隈は自浄作用がちゃんとありますよ、と言うことを明確に示さなければならないからだ。ここでは自分はなぜそのような結論を持つに至っているのかを説明していく。15000文字以上とクソ長い文章になってしまったのだが、時間があれば我慢して読んでいって欲しい。

 二次創作をしていない人間による二次創作論という存在価値が良く分からないものになっているのだが、これを読んでいただいている皆さんの思考材料となってもらえれば幸いである。

二次創作は立派な犯罪

 まず、ウマ娘に限らない、二次創作全体のあり方について、自分の考えを述べていきたい。

 よく「二次創作はグレーゾーンだから云々」と言う言説を目にする。「グレーゾーン」と言うと法律の解釈次第では違法とも合法ともなり得る、と言う印象を受けるのだが、この表現は誤りだと考えている。二次創作はグレーゾーンでも何でもなく、法律にしっかりと記載された完全なる犯罪だと言うことを確認しておきたい。

 著作権法では、原作を著作者の許可なく改変することを禁じており、それに違反するのは著作者の「翻案権」「同一性保持権」を侵害する犯罪である。であれば、二次創作は「原作を著作者の許可なく改変」した表現全般を指す言葉であり、二次創作はその定義からして立派な犯罪なのである。すなわち、二次創作者は全て犯罪者であり、二次創作を楽しむ私たちもまた、犯罪に手を染めた成果物を摂取して日々の生活を潤わしている無法者なのである。

 それでは何故私たちは告訴されないのか? それは権利者が、二次創作の存在が自分たちのビジネスに影響を与えない、もしくはプラスになる、と思っているからである。ビジネスにマイナスになっていることが明らかなのであれば、告発して刑務所にぶち込んで筆を折らせ、損害賠償を請求することだって出来る。営利企業がそれをしないのは、二次創作が存在するメリットがデメリットを上回っているから。その条件がある限り権利者は二次創作者を告訴せず黙認する。

 言い換えれば、権利者は二次創作界隈のことを「我々のビジネスと競合しないように上手く楽しんでくれるだろう」と信頼しているので二次創作を黙認している、と言うことになる。二次創作が存在できる理由はこの信頼関係があるからであり、逆に言えばこの信頼が毀損されてしまうと、二次創作の存在は一気に許されなくなってしまう。そしてその信頼関係の根本は、二次創作が存在することによるメリットとデメリットのバランスであり、極めて微妙なバランスの上に成り立っているものだと言える。この構造をまずは確認しておく必要がある。

線引きされたら終わり

 さて、そのメリットがデメリットを上回る境界線はどこにあるのか、人間ならば誰しも知りたいものである。その境界線を知る事ができれば、安心して二次創作に励む事ができる。

 最も安易な考えなのが、権利者に対して「この表現はOKですよね?」と境界線を直に聞きにいく事である。随所で言われている通り、これは絶対にやってはいけない行為である。OK/NGの線引きを権利者に対して求める事は、二次創作の表現の幅を大幅に狭めることになりかねないからだ。

 例えば、「自分とこのキャラクターで性的な表現をされるのは嫌だなぁ」と考える権利者がいたとする。その権利者が、「基本的に二次創作はOKですが、R指定となる表現はNGです」と明確に線引きした場合を考える。

 すると、それを旗印に裸のキャラクターの乳首に絆創膏貼っただけ(しかも乳輪は出ている)のイラストを大々的に公開する人間が出てくる。必ず出てくる。乳首絆創膏はR指定の表現ではないが、権利者としてはNGとしたかったはずの表現である。

 これに対処するため、追加で「肌の面積が20%以上出ているイラストはNGです」と再度アナウンスしたとしても、今度はスクール水着にニーソックスとロンググローブを装着しエロ蹲踞するキャラクターのイラストを公開する人間が出てくる。必ず出てくる。結局、どんなに厳密に線を引いたところで、本当に規制したかったはずの「性的な表現」を規制することはできない。

 多様な表現をする事が出来るのがイラスト・小説の魅力であり、その力で原作のキャラクターを再表現する事が出来るのが二次創作の魅力である。そんな多様な表現が存在する二次創作で、その全てを事前に把握してOK/NGの線引きを明確にすることは絶対に不可能だ。

 仮にOK/NGの線引きをしてガイドラインを定めたとしても、二次創作者側からはそのOKの範囲内で過激な表現を行う者が必ず出現する。これは人間の性質なので仕方がない。法律でさえそうなのだから、素人が作ったガイドラインの抜け道を探すのは容易い。結局、ガイドラインを定めてもNGとしたい表現で溢れかえってしまうのなら、二次創作など全面的に禁止するしかない。詳細なガイドラインを作り、随時改訂して二次創作を守っていくコストや義理など、権利者側には何一つ無いのだから、全て禁止するのが手っ取り早い。

その線は誰が引く?

 なぜこのような事になってしまうのだろうか? 権利者による線引きは言わばルールである。ルールからはみ出た表現は明確にNGだと扱われる一方で、ルール内の表現は全てOKだと、言外に表現されてしまう。無数のグラデーションが連なる二次創作の表現の規制に、0か1かで判断するルールを持ち込むと言う発想自体が破綻している。そして、権利者による明確な線引きは、二次創作者にとって「ルール」として扱われてしまう。この事が、権利者に線引きを求める事で二次創作が破滅する原理である。

 二次創作を守るために一番重要なのは、権利者に表現のOK/NGの判断を一切させない事だ。

 じゃあその線引きは誰が考えるのか?OK/NGの線引きを権利者に委ねる事がダメなのだとすれば、残る登場人物は1人しかいない。

 私たち二次創作コミュニティの側で考えるしかない。どういった表現がOKになりそうなのか、この表現はNGになりそうなのか、一人一人が考えてやっていくしかない。その判断を適切に行う事ができれば、NGの表現が権利者に触れる事はなくなり、権利者による表現の線引きをされる恐れは無くなるのだ。

 当然、その判断はエゴイスティックなものであってはならない。自分がOKか、NGかで考えるのではなく、「権利者から見てOKそうか、NGっぽいか」で考えなければならない。「権利者の思惑」という、雲を掴むようなフワフワとしたものを基準に、考えてやっていくしかない。

二次創作と自治

 具体的に、どのように「権利者から見てOKそうか、NGっぽいか」を見極めていくのか。何がOKなのか、何がNGなのか、実際は誰にも分からない。二次創作を描く(書く)人も、見る(読む)人も分からない。権利者に聞いても明確な答えは返ってこない。その中で、どのようにしてOKの表現を見極めていくのか。

 その拠り所は、言ってしまえば「常識」である。常識的に、ここまでの表現であれば何も咎められないだろう。この表現は、常識的に考えて原作者がちょっと怒るかもしれないな。常識という、あるのかどうかすらも分からないフワッとした言葉。正直好きな言葉ではないのだが、誰も正解が分からないのだ。ならば、自分等の経験と価値観、そして想像力からなる「常識」というもので、探り探りやっていくしかない。

 そして重要なのは各個人の持っている常識は全て歪んていること。それぞれ歩んできた人生は違うし、経験も違うし、価値観も違う。だから、一人で「常識」に沿って考えると、物凄いところにピンを刺してしまう可能性がある。その場合、同じ二次創作のコミュニティに身を置く人々が、「常識的に考えてそれはちょっと違うんじゃない?」と指摘し、適切な場所にピンを刺し直させる必要がある。このように、各個人の「常識」をぶつけ合っていくことによって、OKラインをはみ出た創作物は少なくなり、全体として「ここまでは多分OKだよね」というコンセンサスが取られていくことになる。これが自治である。

 良く「自治厨」という言葉がある通り、何の権力も正当性もない一般人が取締りのような事をするのは嫌われる傾向にある。それはもう仕方のない事だし、実際自治すべきでない局面の方が多いのも事実なのだが、二次創作においてはこの自治の存在が無ければ始まらないと考えている。

 何せ、権力と正当性を併せ持った権利者が二次創作を取り締まり始めるのは、コミュニティにとって破滅的局面に近い。権利者が「この表現はアウトです。やめてください」と言った時点で「ルール」は発効され、二次創作のコミュニティは破綻に近づく。そうならないようにしなければならない。誰かが眠れるドラゴンの尻尾を踏んでしまわないように、それぞれの住民が目を光らせて置く必要がある、というのが二次創作コミュニティの実際だし、あるべき姿だと考えている*1

 

表現規制をしているウマ娘の特殊性

 とはいえ、NGの表現がある二次創作のコミュニティはあまり見た事がない。公式イラストをトレスしプリントしたものをグッズとして販売したり、ゲームの開発者の名誉を毀損する同人誌を頒布したりして公式から法的手段を執行されたりしたケースは知っているが、それは二次創作の表現というよりもちょっと別の問題になる。ほとんどのコンテンツの権利者は、キャラクターのエロイラストがネットやアニメイトに氾濫したとしても、自社のビジネスに影響しない、と考えていると思われる。

 そう考えると、公式から二次創作の表現内容に対して自粛を求める声明を出しているウマ娘は特殊なコンテンツである。前述までの話を踏まえながら、何故ウマ娘公式はこのような声明を出しているのか、この声明に対して私たちはどう対処すべきなのか、考えていきたい。

なぜウマ娘は馬主から許可を取っているのか

 ところで、西山氏のこのツイートの通り、サイゲームスは馬名使用にあたり、それぞれの馬主(あるいはそれに近しい人物)に使用許諾を取っているものと思われる。サイゲームスは何故この使用許諾を取っているのか、そこから考えていきたい。

 と言うのも、ゲームにおいて実在の馬名を使用するにあたり、馬主の許諾を取る必要はない、との最高裁判所の判例があるためである。法解釈上は、ゲーム会社は実在の馬名を自由に使ってもいい、と言うことになっているのだ。

 しかし、現在競馬ゲームの開発にあたっては、馬名の無断使用は行われていないと推測できる。先の裁判の被告であり、勝訴したはずのコーエーテクモでさえ、販売しているゲーム「ウイニングポスト」の開発にあたり、馬名の使用許諾を取っているものと思われる。西山氏のブログからもそのような記述が読み取れるし、何よりもこのゲームには2019年度ダービー馬である「ロジャーバローズ」が存在しない*2。他のダービー馬はもちろん、GIIIを一勝しただけのような馬もこのゲームには収録されている。にも関わらずロジャーバローズが存在しないのは、馬主の許可が取れなかったから、そしてそれに従ったからに他ならないだろう。

 そしてサイゲームスも、ウマ娘の開発にあたって馬名の使用許諾を求めている。法的には問題はないはずなのに、何故一々馬主の許可を取っているのだろうか?

 もし仮に全く許可を取らずにウマ娘として実装した場合、サイゲームスに対する馬主の感情はおそらく最悪になる。自分の人生で出会った掛け替えのない大切な存在が勝手に美少女化され、勝手にほわほわ巨乳お姉さんにされたり、勝手にもふもふツインテールにされたり、勝手に激ヤバマッドサイエンティストにされている。そして、それを使ってサイゲームスというよく分からない会社が金を稼いでいる。怒るなというのが無理な話である。

 勝手に名前を使用された馬主はもちろんそうだし、その他の有力馬主も当然警戒する。その周りの調教師や騎手も当然良い気持ちにはならない。その結果、競馬を題材としたゲームなのに、実在の競馬会からは激しく敵視されている、という非常に歪な立場のゲームとなってしまう。その状況では競馬ファンウマ娘ファンの間での対立が深刻な状況となるだろうし、第三者から見たら「炎上してばかりの最悪なゲーム」とのレッテルさえ貼られてしまうだろう*3。その状況では新規顧客は望めそうもない。

 だからサイゲームは、競馬界との間に信頼関係を築く。歴代の強豪競走馬を美少女化するという、一見リスペクトの欠片も無さそうなコンテンツだからこそ、馬主の感情も大事にするし、寄付を通じて競馬界に対する貢献もする。そのようにして信頼関係を築いてきたからこそ、競馬を題材としたコンテンツとして社会に大々的に売り出す事ができるのだ。

 そう、ここでも信頼関係。ウマ娘自体、現実の競馬の二次創作である。馬主を始めとした権利者に対して、デメリットよりもメリットを多く与える事が出来る事を前提として初めて、「ウマ娘」というコンテンツが存在できるのだ。

 ウマ娘が存在することによって、あなたの愛馬のイメージに傷は付きません。いや、それどころか、競馬を知らない人たちにも、この馬の素晴らしさをもっと知って欲しいんです。私たちを信じてください。

 そのように「ウマ娘が存在することによってメリットがデメリットを上回る」と説明する、あるいはそれに準じることをしたことによって、それぞれの馬の二次創作で商売を行うことを許可されたのだ、と推測できる。

馬主をする理由、許可を出す理由

 少し話は逸れる。ここまで「愛馬のイメージ」と連呼してきたのだが、馬主はそのようなナイーブな理由ではなく金銭的な理由、つまりサイゲームスに巨額の金を積まれたから利用を許可した、という可能性は考えられないだろうか?

 これはあまり考えられない。というのも馬主という稼業自体が採算の成り立たない、ただの趣味なのである。

 GIレースで1着になると1億円、大きなレースでは3億円もの賞金が支払われる。巨額に思われるが、そもそも競走馬自体が購入に数百〜数千万円かかり、毎月のランニングコストも数十万円かかる。そしてデビューした競走馬だが、80%は一勝も出来ずに引退する。そんな過酷な競争を勝ち抜き、強豪が集うGIレースで1着になってやっと1億円である。とてもビジネスとしては成り立たない。ほぼ全ての馬主は競馬で赤字を垂れ流しているのが実情である。

 じゃあ何故馬主をしているのか。有り体に言えば趣味であり、もっと言えばロマンである。自分の馬で大レースを勝ちたい、その喜びを数万の観客と分かち合いたい、自分の名付けた馬の名前を血統表に残したい。そんなロマンが馬主を突き動かしている。そうして出会った馬、特にウマ娘に出てくるような実績と感動を積み上げた馬は、その馬主にとって人生でも大きなウェイトを占める存在だと言えるだろう。

 別に自分は馬主でも何でもないので上記は想像でしかないのだが、大きくは外れてはいないと思う。また、馬主の多くは安定した収入を持った経営者である事が多いため、そもそも金銭を求めて馬主をする動機も無い。

 そんな馬主なので、ウマ娘に自分の馬を登場させている動機も金銭的理由とは考えにくい。おそらくその動機は、「うちの馬のことをもっと知ってもらいたい」という感情になるだろう。

 そう、馬主がウマ娘に二次創作を許可している理由は、ビジネスではなく感情なのである。二次創作を許容する前提となるのは、他のコンテンツのように「自分のビジネスにマイナスにならず、プラスになるから」ではなく、ウマ娘の場合は「自分の馬のイメージが悪くなる事がなく、もっと知ってもらえる」からである。ここが他のコンテンツの二次創作と根本的に違うところで、ウマ娘の二次創作が許可されている前提は、金銭的ではなく感情的な理由なのである。

 二次創作が存在できる前提が違うので、他のコンテンツで許されてきた表現も、ウマ娘では許されない、という事は普通にあり得る。ウマ娘のアニメやゲームを見ても、露骨な性的表現はほとんど存在しない*4。女性向けのマーケティングを意識した結果でもあるのだろうが、馬主や競馬界に対する配慮もまた大きな要因を占めるだろう。

ウマ娘は競馬の二次創作

 さらにウマ娘が他のコンテンツと違うのは、ウマ娘自身が二次創作であり、ウマ娘の二次創作は現実の競馬の三次創作となる、という多重構造にある。そうなるとどうなるのか。簡単に言えば、許容される表現の幅が大きく狭まるのだ。

 サイゲームスに許可を出した自分の愛馬が美少女キャラクターとして擬人化されて登場した。その結果、あられもない格好であられもない行為をしたキャラクターや、無残な姿にされたキャラクターのイラストが、自分の愛馬の名前のキャプションと共に公開され、共有され、氾濫する。それを目にした馬主は、自分と愛馬との思い出を汚された気持ちになるだろう。

 「お前たちのことを信頼して許可を出したのに、約束が違うだろう! もううちの馬の名前を出すな!!」

 このようなことを馬主が言い出したら終わりである。要求を呑むにしてもその後のコンテンツ運営に重大な支障をきたすし、呑まないにしろ、サイゲームスと競馬界の関係は決定的に悪化する。いずれにせよ、ウマ娘というコンテンツ自身の存続が危ぶまれる事態となる。

 当然、サイゲームスとしてはそうなる前に手を打ってくる。つまり、「馬主が感情を害しそうな表現」が出てきた段階で、声明を出すなり規制するなり告訴するなりの手段に出てくる。これは先に書いた、「二次創作における自治」に似ている。権利者を怒らせたら終わりなのだ。そうなる前に、ウマ娘の二次創作の表現をコントロールしておく必要がある。「イメージを著しく損なう表現は行わないよう」という声明を出したのも、その自治の一貫であると言えるだろう。問題なのはその自治を行うサイゲームスもまた権利者なのである。

 先に書いた通り、権利者が二次創作の表現の線引きをしてしまうのは、二次創作の自由を大幅に狭める可能性のある事態であり、二次創作者としては出来れば避けたい。そしてサイゲームスが怒りそうなのは「馬主が感情を害しそうな表現」である。これを避けなければならない。つまり、私たちウマ娘二次創作コミュニティが避ける必要がある表現は、「『この表現は馬主が気分を害してしまいそうだ』とサイゲームスが考えそうな表現」なのである。

 権利者を怒らせれば終わりの二次創作にあって、安全な表現の幅が「実際に権利者が怒るライン」よりも狭くなるのは必定である。それがウマ娘の場合、権利者が2段階に渡って存在するので、「実際に馬主が怒るライン」から「(サイゲームスが考える)馬主が怒りそうなライン」「(二次創作者が考える)サイゲームスが怒りそうなライン」と二段階幅が狭くなる。他のコンテンツに比べて、安全な表現の範囲が構造上大きく狭まっているのがウマ娘の二次創作の特性だと考えられる。

 また、「イメージを著しく損なう表現は行わないよう」という曖昧な声明を出したのも、サイゲームスも実際のところ、どのような表現が馬主の気分を害するのか分からないからだ。先に書いた通り、二次創作の表現に明確な線引きは不可能である。そしてサイゲームスとしても、馬主に「乳首に絆創膏貼っただけのイラストはOKですよね?」と確認するわけにもいかない。厳密なルール化は不可能である。この状況でサイゲームスが取れる行動は2つに1つで、1つは二次創作を全面的に禁止すること、もう1つは「上手くやってくれるだろう」と、二次創作者の良心に任せて二次創作を許可することである。サイゲームスは後者を選択した。逆に言えば、「コイツらは上手くやれそうもない」と判断されれば、ウマ娘二次創作は終わりである。

 長くなってきたのでまとめよう。ウマ娘の二次創作が、他のコンテンツの二次創作と大きく異なるのは以下の2点だと考えられる。

  • 二次創作の前提がビジネスではなく感情であるため、他のコンテンツで存在が許される表現の多くは許されない
  • ウマ娘の二次創作は競馬の三次創作であるため、安全な表現の幅は他のコンテンツと比べてかなり狭い

何故エロばかりがアウトなのか問題

 

 このようなツイートを見かけた。確かに、イメージを損なう可能性のある二次創作は大量にある。その中でも、何故エロばかりが忌避されているのか疑問に思う人はいるかもしれない。

 何度も書いている通り、「具体的にどのような表現がイメージを損なうのか?」をサイゲームスに聞くのは愚かな行為である。答えは、私たちの中で出していくしかない。ここでは、ウマ娘においてウマ娘では何故エロイラストばかり忌避されているのか?」を考えていきたい。

 上述の通り、サイゲームスが「イメージを損なう表現」を自粛するように要請している目的は、馬主の感情を損なわないようにするためである。それを前提とした時、「馬主の感情を損ねる可能性のある二次創作」はどのようなものがあるだろうか?

 答えとしては全部となる。あらゆる二次創作は馬主の感情を害する可能性がある。

 例えば、マイルチャンピオンシップで後続の追撃を振り切り必死の形相で最後の直線を駆け抜けるタイキシャトルのイラストが公開されていたとする。一見問題は無さそうに見える。

 しかし、これを目にした馬主はマイルチャンピオンシップでうちの馬は5馬身差余裕の圧勝しとったからこんな表情せんわ! イラスト描くのに実際のレース調べんのか! 死ね!」と怒る可能性は、ある。表現の解釈など、受け手の経験や価値観に加え、その日の体調や感情によっても変わってくるので、絶対に怒られない表現など一切存在しない。全ての二次創作の表現は多かれ少なかれ、権利者からの怒られが発生するリスクを例外なく抱えている。

 じゃあこのタイキシャトルのイラストを公開する事によって、実際に怒られが発生するリスクはどれぐらいあるだろう? まぁ、ほとんど無いだろう。上記のような解釈は、元からウマ娘に対する敵意が物凄い、かつ虫の居所が死ぬほど悪い場合ぐらいしかされないだろう。だから、このようなイラストは躊躇なく公開する事ができる。外出する際に交通事故に遭うリスクを想定しないのと同様に、このイラストを公開する事で怒られが発生するリスクもまた十分に小さい。そんなリスクは考えなくてもいい。

 このように考えると、二次創作でOKとされている表現は「絶対に怒られない表現」を指すのではなく、「怒られるリスクはあるが、常識的に考えて非常に小さいので、無視してもいい表現」である、と考える事ができるだろう。

 では別の表現を考えよう。アニメ2期放映以降、メジロマックイーントウカイテイオーの百合イラストが流れてくるようになった。当然、現実のメジロマックイーントウカイテイオーは恋仲であったわけではなく、実在の馬のイメージとは異なる表現である。メジロマックイーンxトウカイテイオーの百合イラストを見た時、馬主は怒るだろうか?

 これについては色々な意見があると思う。自分の考えだが、百合イラストはおそらく怒られない。馬主がこのイラストを見た時「何でうちの馬とマックイーンがちゅっちゅしとんのや...」と困惑するかもしれないが、そこからトウカイテイオーのイメージが毀損されている!」とは、ちょっと思いづらいのではないだろうか。

 当然、「いや百合は怒られるだろ!」という意見も存在すると思う。確かにそうなのかもしれないし、そう思う人が多数派だとすれば実際にその確率は高いと思う。そしてこの答えは誰も知らない。「この表現に対して馬主はどれだけ怒りそうか」に対する明確な答えは存在しない。それぞれの「常識」に沿って考えて、「自治」によってすり合わせるしかない。

 客観的な結論として、「百合イラストはどれぐらい怒られそうか?」という問題については、二次創作コミュニティとしての答えはまだ出ていない状況なのである。先述の通り、ウマ娘の二次創作は「馬主の感情」というあやふやなものでOK/NGを考えなければならない特殊な環境なので、他のコンテンツのコミュニティから答えを持ってくる事も出来ない。これから時間をかけて、自分たちなりの答えを出していくしかない。仮に「百合イラストくらいだったら馬主さん怒んないよね」となったとしても、実際に百合イラストを見た馬主が激怒する可能性もあり得る。その時の損害は、二次創作のコミュニティ全体で引き受けるしかない。

 さて、当初の問題に立ち返る。ウマ娘では何故エロイラストばかり忌避されているのか?」

 それは、各個人の常識に照らし合わせて「満場一致でこれダメだよね」と早々にコンセンサスが取れたのがエロ系の表現だからである。

 ウマ娘の二次創作に関わる者として、みんな言外のうちに「『この表現は馬主が気分を害してしまいそうだ』とサイゲームスが考えそうな表現」には何が該当するかを考える。その根拠は各個人の「常識」なのだが、各個人が「常識的に」考えた結果として、多数の人が「エロイラストは絶対馬主怒るよね」と結論を出した、のが今の状況なのである。

 「いや、自分の馬がエロく書かれても馬主は怒らないだろ!」という反論もあり得るだろう。そういう馬主もいるかもしれない。しかし、何度も言う通り、二次創作のOK/NGの線引きは、二次創作のコミュニティ側が決める必要がある。その根拠は、どうしても「常識」に依存せざるを得ない。言ってしまえば、根拠など無いも同然なのである。

 根拠の無い状態では議論は成り立たない。「エロは怒られる」という主張に根拠は存在しないが、「エロは怒られない」という主張にもまた根拠は存在しない。ただ一点言えるのは、「エロは怒られる」と信じている人がウマ娘のコミュニティ内で多数派という事である。議論が成り立たない以上、「エロは怒られない」と思っていたとしても、コミュニティに属する人間としては従うしかない。従わなければ「コミュニティを危険に晒す危険人物」として攻撃され排除される運命にある。これは仕方のない事である。

自浄作用と怒り

 さて、自分が属する二次創作のコミュニティに、エロイラストはダメだというコンセンサスがあったとする。その中で、堂々とエロイラストを公開しているアカウントがあった。そのイラストは現時点で1000RTされている。指摘のリプライは既になされているが、それに対して本人は悪びれる事はない。コミュニティを守るために、私たちはどうするべきだろうか?

 色んな意見があると思うが、自分の意見としては「ボコボコに叩く」である。この界隈ではエロ書いてはいけないって知らないのかよ、というか知っててやってたの? 信じられない、ありえない。みんなでコイツ通報して凍結に追い込もう。

 過激思想に思われるかもしれないし、実際そうなのだが、そうするしか方法はないと思う。コンセンサスから外れた表現は権利者を怒らせる可能性が高いし、怒らせたら二次創作界隈にとって重大な不利益になる。しかし既に公開されてしまった表現は仕方がない。次善の策としてボコボコに叩く事で後に続く者が出ることを防ぐとともに、「この二次創作のコミュニティには自浄作用がある」と権利者に対してもアピールする必要がある。

 よくこのような問題に対して「権利者とその人の間の問題なんだから、外野が口にする事ではない」という意見を目にするのだけど、個人的には当事者意識が無さすぎなのかなと思う。何度も書いている通り、本当に権利者と当事者との問題になった時点でもう手遅れなのだ。眠れる獅子を起こさないため、この問題は二次創作のコミュニティに閉じて処理をする必要がある。

 そして、怒るというのはネガティブなイメージがあるが、大切なものを守るためには必要不可欠な行為である。「外野は黙ってろ」という言葉が正当性を持つのは、その人が本当に外野の時である。このケースの場合、自分の属する二次創作のコミュニティが危機に瀕するわけなので、外野ではなく完全なる利害関係者となる。大切なものを守るために声を上げるというのは、全く正当な行為だと思う。

 もう一つの例を考える。偶然にもエロイラストを発見してしまった。しかしそれはTwitterの鍵アカウントのものであり、そこから外部に拡散されている気配もない。これを見て、私たちはどうするべきだろうか?

 これも色んな意見があると思うが、自分の意見としては「見て見ぬふりをする」である。自分たちが恐れなければならないのは「エロイラストが権利者の目に届く」事であり、「エロイラストが創作される」事そのものではない。権利者の目に触れないよう十分に配慮されたものについては、事を荒立てる必要はない。

神は存在するのか

 ここまで長文を書いてきたが、どのような感想を抱いただろうか? 「自分たちの中で自治をするしかない」「常識と言うあやふやなもので判断するしかない」「異端者は袋叩きにするしか無い」。かなり野蛮な思想の持ち主であるように見えるし、実際にその通りだと思う。土着神を崇め奉る未開の地の住人そのままである。

 二次創作は宗教に例える事ができると思っている。権利者は神であり、神は何一つ言葉を発することはない。神は自分たちの行動をどう考えているのか、どんな行動をすれば神はどんな応報を加えてくるのか。根拠のないまま考え、集団を律して、不届き者は処刑して生贄に捧げ、神の怒りを鎮めなければならない。こう考えれば、自分の考えはなかなか原理主義的である。

 そして神の存在を否定する人もまた存在する。「何をやっても問題ない。神に縛られることはない。俺たち人間は自由だ」。そのような考えは近代主義的であると言えるかもしれない。二次創作に当てはめれば、「権利者を怒らせたからと言って、別に二次創作に影響なんて出ない」と言う立場である。この立場にも説得力がある。権利者が怒って二次創作が絶滅したコンテンツは歴史上一つも無いからである。

 結局これには正解がない。二次創作に対してどのようなスタンスで関わっていけばいいのか、本当は誰にも分からない。だからみんなで議論する、話し合う、自治する。何度も書いてきた事だが、答えの分からない問題に対してはそうやって上手くやっていくしかない。

 この文章を書いたきっかけとしては、冒頭にあった通りセイウンスカイニシノフラワー周りのゴタゴタが発端であり、それをきっかけとして自分の中で湧き上がってきたモヤモヤを、言語化して発散したかったからである。結局、答えがないことに対して延々と自問自答するハメになったので、余計モヤモヤしてしまった感は否めない。ただし、自分なりの二次創作に対するスタンスは、ある程度筋道立てて表明してきたつもりである。

 ここまでこの文章を読んできたということは、あなたも二次創作を愛する人だと思われる。あなたは、二次創作についてどう思うだろうか? 考えた事がないのなら、どうか出来れば、一緒に考えてモヤモヤして欲しい。その事が結局、二次創作を守ることに繋がると信じている。  

*1:一方で、自治をする人に対して「そこまで取り締まる必要は無いんじゃない?」と指摘する「自治自治」もまた必要な事である

*2:ロジャーバローズだけでなく、同じ馬主の他の馬も全て存在しない

*3:競馬のイメージもダウンするだろうが、競馬のイメージは元から悪いのでノーダメージ

*4:ダイワスカーレットのキャラデザは確かにエロいが、まぁ他のコンテンツに比べれば、まぁ...

競走馬の墓や記念碑は聖地巡礼スポットではない

[3/25 10:00頃]
記載内容の稚拙さにより、読者に伝えたいことが伝わっていない記事になっていることから、
この記事内に書いた内容については全面的に撤回し、削除いたします。
このような記事を書いたことを反省するとともに、ご不快に思われた方々に謝罪いたします。

お気持ち表明徹底指南 〜「俺は冬優子に生きて欲しい。」に寄せて〜

 magazineworld.jp

 アイマスが特集されたBRUTUSを買った。本当に素晴らしい特集だったと思う。アンバサダーの書き下ろしイラストに実在感の極めて高いインタビュー。アイマスのプロデューサー(所謂ファン)や本職のアイドルプロデューサー、そして専門家のそれぞれの目線の切り口から語られるアイマスの魅力。15周年を迎えたアイマスの魅力を余すことなく表現した、素晴らしい特集だった。

 しかし、あまりにも残念なことが二つある。

 一つは、その特集の読者からのリアクションで一番バズったのが、内容に対して極めてネガティブな上記のお気持ち表明であること(記事執筆時点で約2000RT)。いくらネガティブな反応がバズりやすいからといって、この状況はあまりにも悲しい。

 もう一つは、上記のお気持ち表明の文章が極めて質が悪いこと。事実と憶測の混同、主語の拡大、不誠実な語り口、論理的整合性の欠如、結論の不在... 人の気持ちを動かすべきお気持ち表明において、やってはいけない文章表現をほぼコンプリートしている。バズらせるならもっと良い文章あるやろ...

 僕は失敗から学ぶ事が大好きな人間なので、上記のお気持ち表明の何がダメなのか、どうすればいいのかを、お気持ち表明を散々繰り返した僕からの目線で解き明かしていきたいと思う。オタクたるものお気持ちを表明したくなる時は必ず来るし、その際には出来るだけ多くの人の心を突き動かす文章を書きたいものだ。もしその時が来た時、この記事がそのためのいい教材になれば幸いである。

 なお、僕は「シャイニーカラーズ」をほとんどプレイしていないし、黛冬優子というキャラクターの全貌を把握していない。よって、この後の文章では、黛冬優子のパーソナリティについては一切扱わない。

お気持ち表明の2パターン

 さて、ここまでザックリと「お気持ち表明」と書いてきたが、扱う範囲を無駄に範囲を広くしないために、ここではお気持ち表明を2つのパターンに分類したいと思う。

 まずは「純粋お気持ち表明」。これは起こった事象と、それによって損なわれた自分の感情について記すのみの文章のことを指す。言い換えればエッセイとほぼ変わらない。このタイプのお気持ち表明は論理的整合性などの文章技術は何ら求められない。好きなだけ自分の感情を主観的に書いていいし、好きなだけ文学的表現に徹すればいい。この記事ではこの「純粋お気持ち表明」については扱わない。

 もう一つは「問題提起型お気持ち表明」。これは自らのお気持ちを表明すると共に、読者に対しても「これは他人事ではない」「お前も行動しなければ自分と同じ目に遭う」と行動を呼びかけるものである。これは前者に比べて、文章に求められる整合性のレベルが跳ね上がる。読者に行動を呼びかけるというのは、それだけの行動を起こすコストを読者が支払う正当性を証明しなければならないからだ。この記事ではこの「提案型お気持ち表明」についてのみ扱う。

 さて、先に掲載した「俺は冬優子に生きて欲しい。」なのだが、これは途中で「冬優子担当だけに関係することではない」「目の前にある問題に対して見てみぬふりをする「事なかれ主義」は、近い将来あなたが致命傷を追う原因になるかもしれません。」と書いてあることから、明らかに後者である。こう強く呼びかけるならば同じくらいその危機感の正当性を強く主張しなければならないのだが、この記事はそれに失敗してしまっている。

 具体的にどこがダメなのか、先にまとめて掲載し、その後一つずつに対して言及していく。

  • 誠実でない
  • 読者の想定質問に答えていない
  • 根拠なく主語を拡大している
  • 無闇矢鱈に敵を増やしている
  • 結論が不明瞭
  • 途中で別のテーマに飛んでいる
  • 論理的に繋がらない文章がある
  • BRUTUS、お前もか」が寒い
  • 全体的に推敲されていない

お気持ち表明重要ポイント指南

お前が一番誠実であれ

 お気持ちを表明するということは、自分(あるいは近しい位置にいるもの)は被害者であると表明する事だ。そのためには、せめて文章内では自分のことを誠実な人間であるように見せる必要がある。誠実でない人間に感情移入できる人は少ない。

 さて、今回取り上げた記事の冒頭には、お気持ち表明人がお気持ち表明をするに至った原因である、BRUTUSに掲載された黛冬優子の推薦文がある。それは以下のような形で引用されていた*1

f:id:realizemoon:20210217221034p:plain

 これだけだと本当に酷い文章に見えるが... 槍玉に挙げられた推薦文の全文は以下の通りだ。

ステレオタイプな可愛いアイドルを演じてはいるが、実は腹黒なオタサーの姫という設定。しかし(本人は否定するが)努力家で人情に厚く、面倒見も良い。計算高くアレコレと策は練るが、本来の人の良さからいまひとつヒールになり切れないところ、根性、潔さ、泥くさいところも含め、人間味が魅力。

 印象が大きく違う事が分かるだろう。この推薦文は「下げてから上げる」系の文章となっており、その表現方法に賛否あることは否定しないが、黛冬優子というキャラクターの複雑性、多層的な魅力を短い文章で表現しようとした文章になっている。明らかに、この文章の核心は後半にある。

 ところが、お気持ち表明人は、文章量的に略する意味など無いにも関わらず、推薦文の「下げる」部分のみを切り取って糾弾していた。さらにその直後の文章では「まともにプレイしても腹黒と思っている人は、日本語を理解できていない」と記述し、その後では推薦文の作成者を「黛冬優子というキャラクターの名誉を明確に毀損し、キャラクターの品位を貶めている」と極めて強い表現で批判している。

 当然ながら、推薦文の作成者は黛冬優子というキャラクターを中傷するつもりなどなく、ただ彼女の魅力を伝えたくて短い文章に文字を詰め込んだのだろう。それを、推薦文の作成者が本当に伝えたかった事を覆い隠して自分の気に入らない表現のみを論い、それを元にして一方的に糾弾するのは誠実とは程遠い行為だ。

 もし、推薦文の全文にアクセスできる読者が、お気持ち表明人が推薦文の核心部分を隠蔽したまま批判を展開しているのを読んだときはどう思うだろうか? この文章の書き手は信用できないし、読む価値が無いと判断されるに違いない。このような文意の切り取りは、文章全体の信頼性を毀損してしまう絶対にやってはいけない行為だ。何かを批判する際には、批判対象にこそ誠実でなければならない。そうでなければ読者はついてこない。

「〜かもしれない。でも〜」論法を使え

 さて、お気持ち表明人はなぜ推薦文を切り取ったりしたのだろうか? これは推測にはなるが、「黛冬優子を肯定する表現が含まれていることを書いたら、自分の書いた文章の正当性が失われるかもしれない」と考えた可能性がある。これはお気持ち表明をし慣れていない人が陥りがちなミスだ。自分がこれから糾弾する相手は、出来るだけ悪く写る必要があると考えてしまう。

 しかし今回の場合、筆者の怒りは「腹黒」「オタサーの姫」といった表現にある。これは推薦文の表現したかったものとはまた別の問題として論じることが出来るので、実は全文を記載しても何ら正当性を失うことは無いのだ。

 であるならば全文を掲載しようとすると、「推薦文全体としては良いこと書いてあるんだから目くじら立てなくても良くね?」と言い出す人が必ず出てくる。お気持ち表明人はこのような指摘を恐れた可能性があるが、自分はこのような指摘に備え「〜かもしれない。でも〜」論法を良く使っている。今適当に命名した論法なのだが、要は「一旦譲歩しておいて、それを考えても自分の主張が正しい事を念押しして表明する」という論法だ。

 今回のお気持ち表明では、「〜かもしれない。でも〜」論法を以下のように使うことが出来る。

 推薦文を書いた方は、短い文章で魅力を表現するためにキャッチーな言葉を使おうとしたのかもしれません。実際に、後半の文章では冬優子の一言では語り切れない魅力に触れていているので、そのコントラストを対比するために、前半であえてそうした言葉を使った可能性もあると思います。

 ただ、そうだとしても「腹黒」や「オタサーの姫」といった、原作では描写されていない表現を使うのは、いくら冬優子の魅力を表現しようとした文章だとしても行き過ぎかなと思います。それは、これらの言葉が冬優子を表現する事のできるものではなく、それどころかかえって誤ったイメージを読者に植え付けてしまう可能性があるからです。

 (以下、黛冬優子がオタサーの姫でも腹黒でも無いという説明、または自分だったらこういう推薦文を書くという改善案)

 お気持ち表明人は、推薦文の内容や作成者を糾弾するのみで、「いやでも、文章書いた人も悪口言おうとして書いた訳では無いでしょ?」という読者が非常に持ちそうな疑問に対し一切回答していないので、文章全体の説得力が落ちている。このように一度譲歩する姿勢を見せ、それでもダメな理由がある、という論法をすることによって、「確かに、魅力伝えようとしてもやって良いことと悪いことがあるよなぁ」と文章の中で読者を説得することが出来る。読者が持ちそうな疑問に対しては、文章内でその疑問を潰してあげる事によって、疑問が解消されてメッセージが伝わりやすくなる。

 副次的な効果として、一旦譲歩して考えることで自分の考えの論理的なアラも見つけることが出来るし、このような表現をすることでなんとなく「あらゆる立場に立って考える事のできる頭の良くて誠実な人」というイメージも与えることが出来る。簡単で効果が高いので、是非試してみて欲しい。

主語を拡大する際には根拠を示せ

 このお気持ち表明の中で一番マズいのが「冬優子担当だけに関係することではない」の節の文章。この節では、この推薦文に対して怒りの声を上げない人を「事なかれ主義」と断じ、「近い将来あなたが致命傷を追う原因になるかもしれません。」と脅迫している。ここまでお気持ちを読んできた読者に対して、いきなり刃を向け始めるのだ。触るものみな傷つけるギザギザハート状態である。

 お前も当事者だ声を上げろ、と主語を拡大するためには、このまま声を上げないことによって読者に降りかかるリスクを具体的に示さなければならない。そうでなければ、何の正当性も無いのに読者に対して雑に命令しただけになるので、ただただ反感を買うだけだ。

 ところがこのお気持ち表明では「あなたの好きなキャラが今後このような目に合わないと言い切れるのでしょうか?どこにそんな保証があるのでしょうか。」と曖昧に述べるのみだ。これでは読者は動かない。「声を上げなければ具体的にどうなるリスクがあるのか」「声を上げることによってどのようにリスクが回避されるのか」、この両方を説明しなければならない。

 また、お気持ち表明後半には「自分が命を削って真剣に演じているキャラクターの紹介文に事実無根のことを書かれ、キャラクターを貶めているような文章を読んだ冬優子の演者さんはどう思うのでしょうか?冬優子のキャラクターを作っているシナリオライターの人たちはどんな気持ちになるでしょうか?」という表現があるが、これも自分が主語であるはずのお気持ちを、声優やシナリオライターにも「自分と同じ気持ちであるはずだ」と拡大している。詭弁の一種なので避けるべき。自分の感情は自分だけのもので、他人に託せるものでは無い。

攻撃する人数は最小限にしろ

 文章を読んで感じるのは、推薦文を作成した人物への攻撃性。全文章にわたって様々な表現で罵倒しているのだが、本来このお気持ちで表現するべきなのは「相応しく無い表現が載った事」だけであり、推薦文作者のキャラクター理解の不足や文章力の不足を攻撃したところで何の意味もない。むしろ「良く善意で推薦文書いた人をここまで攻撃できるな」と読者に不快感を覚えさせるばかりである。

 加えて、前述のように他のアイマスファンを「事なかれ主義」と書いたり、「公式で書かれていないこと(二次創作などもそうですが)をさも正しい事実であるように書く」のように二次創作に対しても切り込んでみたり。さらにはネット流行語になった「あんたはここでふゆと死ぬのよ」という言葉を「面白くも何ともない」と吐き捨て、その言葉を面白く受け止めている人に対して「神経を疑う」とまで書いたり...

 とにかく全方位に対して無差別に斬りかかっているように見える。敵を作りすぎなのである。敵を作りすぎると論点がボヤけるし、何より文章を読んで反感を覚える人の数も多くなっていく。

 このお気持ち表明人が対決するべきなのはBRUTUS編集部とアイマス公式のみであり、その他の登場人物に対する言及は最小限に留めるべき。ピンポイントのターゲットに対して最大限の理論武装をするべきだ。

行動を促す際には現実的かつ具体的な行動を示せ

 これが最大の問題なのかもしれないが、このお気持ち表明は「誰が何をするべきなのか」が一切明確に書かれていない。

 読者に対しては「おかしいことに対しておかしいと声を上げ」るよう書かれているように読めなくも無いがとても曖昧だし、BRUTUS編集部に対しては「読者の悲しみの声に耳を傾けるべき」みたいなスピリチュアルな事を言っている。また、「BRUTUSの編集者が編集の段階で弾くことで事件は起こらなかった」と書いてあるが、これは編集者がシャニマスを深くプレイしている事を前提としており非現実的である。

 さらにアイマス公式に対しては、他社が自律的に編集して出版する著作物に対して「責任を持って監修すべきだった」等と無茶な要求をしている。その後に続くのが「なんで冬優子ばかりこんな目にあわなきゃいけないんだ」という節なので、まるで気に入らない人間をナイフで一通り刺した後に家帰って布団被って泣くみたいな不気味ささえ感じてしまう。

 このお気持ち表明は、読んでいる人に行動を促したいから書きたかった文章のはずだ。その肝心の行動がボヤけていたり、非現実的な行動だったりすると、果たして何のために書いた文章なのか、何のためにみんなを攻撃したのかも分からない。結局、触るものみんな傷つけて誰も幸せにならないのがこのお気持ち表明最大の問題だ。

 文章を書く際には結論は明確に書いたほうがいい。この場合には読者や出版社にとって欲しい行動。それを具体的に書いて、その行動を取った場合には何がどれだけ良くなるのか明確に書く。それを書けないのであれば、純粋お気持ち表明に留めておいたほうがいい。

一つの文章は一つのテーマ

 このお気持ち表明なのだが、実は二部構成になっている。第一部はBRUTUSに載った推薦文に端を発するお気持ち表明で、前述の通り結論が曖昧なまま、「無関係な外野によって冬優子が冬優子じゃなくなること」の節から第二部に移行する。第二部ではネットミームにより汚染された冬優子像について嘆き悲しむお気持ちが表明されるのだが...

 この第二部は第一部とは全く無関係な内容である。にも関わらず、シームレスに話題が転換(というか拡大)されてしまうので、読む方としては困惑する他ない。BRUTUSの文章について書いてるはずの記事が、途中から全く違う文章にすり替わってしまうのだから。

 結局、BRUTUSの記事に怒っているのか、最近の冬優子のイメージの毀損について嘆いているのか、はたまたシャニマス公式のアイドルへの配慮のなさに呆れているのか判別がつかない文章になっている。 一つの文章は一つのテーマとして仕上げなければ読者に伝わらない。BRUTUSの記事についてのテーマに絞って書くか、または文章全体の構造を変えて、最近のシャニマス公式のあれこれに対して苦言を呈すかのどちらかにするべきだ。

論理的整合性の無い文章は排除しろ

 第二部では「あんたはここでふゆと死ぬのよ」というミームが嫌いなこと、それがシャニマスの公式に逆輸入されて欲しく無いことを長々と書いているが、その中で以下のような表現がある。

「あんたはここでふゆと死ぬのよ」という面白くも何ともないこの台詞を、「じゃあ公式が言ったことにしてやるよ」とシャニマスシナリオライターが今後のコミュで冬優子に言わせたらどうなるでしょう。「あんたはここでふゆと死ぬのよ」が非公式の発言ではなく公式の発言になってしまいます。それと同じように、腹黒(心に何か悪だくみをもっている、陰険で意地が悪い)でオタサーの姫である、という非公式の妄想も同様に公式で逆輸入するのでしょうか?

 と、公式への逆輸入に対してかなり現実的な危機意識を持っていることが伺える。対して、直後には以下のような表現がある。

我々は、表には出てこないけどとても繊細で面白いシナリオを書いてくれるシャニマスシナリオライターの方々が大好きですし、心の底から尊敬しています。我々は、彼らが描くアイドルマスターシャイニーカラーズが好きなんです。

 シャニマスシナリオライターを尊敬しているのか不安視しているのかどっちなのか全く分からない。シナリオライターを「心の底から尊敬して」いるのであれば、ネットミームを雑に逆輸入する危機意識なんて持たないと思うのだけれど。シナリオライターに対する全く正反対のイメージが、何の補足も無しに立て続けに登場したので混乱してしまう。

 こんな文章が出てくるのは推敲していない証なので、どちらかを削除するべきだ。あるいは適当な補足を加えるべき。「シナリオライターの方々は大好きです。しかし、いずれ担当者が変わってスタンスが変わったとき、ミームを逆輸入して冬優子のイメージを毀損してしまわないか心配です」みたいな文章をどこかに書き加えるだけでも大分違う。

つまらないギャグは身を滅ぼす

 蛇足なのだが、全方面に対して怨嗟の声を撒き散らしてきたお気持ち表明の一番最後の節のタイトルがBRUTUS、お前もか」なのが脱力してしまう。誰もが考え付きそうなギャグだし、ただの寒いダジャレなのでやめたほうがいい*2

 ギャグを入れる際にはさり気なく、サラッと書いてしまうのがコツだ。節のタイトルにしてしまうと寒さが際立ってしまう。

客観的読者に査読してもらえ

 おそらくなのだが、このお気持ち表明を公開する前に誰かに読んでもらうことが出来たなら、こんな酷い文章のまま公開されることはなかっただろう。誰かが事前に読んでくれさえすれば、「書いてる事全然ピンと来ないんだけど」と指摘してもらえたはずだ。誰かに届けたい文章であれば、まずは身近な誰かに届くかどうかをテストしなければならない。そうしなければ、数時間かけて書いた文章がただの文字の羅列にしかならない。

 そんな人がいないのであれば、自分で徹底的に推敲するしかない。事情を知らない一般的な読者になり切って、その人に自分の伝えたいことが届くかどうか、徹底的にシミュレートする。少なくとも自分はそうしていて、文章を書く際には少なくとも5回以上通して読み直すし、論理的な整合性や表現、文章の構造や読む際のリズムまで手を入れ直し尽くす。何百人、何千人に対して読んでもらいたい文章なのだから、そこまでの手間を投入するのは悪い投資では無い。

*1:現在は様々な読者からの指摘を受けて全文を掲載されているが、ここでは公開当初の記事の問題点を指摘したいため、修正前の表現を掲載する

*2:そういったギャグを入れたくなる気持ちは痛いほど分かる。自分もこの記事につまらないギャグを一杯散りばめてしまった。